ヨーグルトはお腹に良くて便秘の解消に一役買う、というのはよく聞くし何だか真実っぽいし健康そうな感じがする。
私も一昨日くらいまでそう信じてきたように思う。 幼い頃、結構便秘には悩まされた性質で、そのときにも母から「プレーンヨーグルトを一気に食べなさい」と言われたことが何度もある。 しかしここ最近、ヨーグルトを買って食べる日々を3日連続インターバル2日3クールくらいを続けたとき、まあ実験的にそうしたわけではないのけれど、明らかなお通じ状況の悪化があった。 こんなとき、便利なもので、グーグルに「ヨーグルト 便秘になる」と検索をかけるとそのような記事が出てくる、出てくる。 もちろんこの類のことは何かの記事広告である場合が多いのでその真偽は難しいものがあるのだけれど、私の身体においても、誰かの身体においても、ヨーグルトで便秘になるという傾向はあるようである。 乳酸菌による腸内環境の変化が吉と出るか凶と出るか。 尤も、最近において言えば便秘解消のためにヨーグルトを食べていたわけではなく美味しく食べていたので残念ではあるけれど、便秘になる方が嫌なのでこの後ヨーグルトを継続的に食べることはやめようと思う。 朝日を浴びると自律神経が整うとか、朝食で一日の活動スイッチを入れるとか、毎食同じ時間に食べるとか、夜中に食べると太るとか、それに背くと悪いことをしているような気分になってしまうような、ある種の呪いのようなことは、食べることだけに限らずきっとものすごくたくさんある。 しかし、ここ数年の私の身体において言えば今挙げたことが一つも真実ではない。 一食目はだいたい14時くらいだし、二食目は夜中の12時を回って食事をすることだってかなり多い。 三食食べることは無くはないけれどものすごく稀である。 朝日特有の心地よさも知ってはいるけれど、深夜の高揚だってそれに匹敵するか上回るものがある。 会社員だった頃には前述のような呪縛の中でだいたいをやっていたけれど、そのときよりも本当にだいぶ痩せたし太ることも今のところないし、何なら肌荒れだってあまりしなくなった。 かといって私と同じことを同じように皆に広めたいとは思わない。 ヨーグルトを食べると下痢をする人がいるように、さまざまな個体差があるだろうし、生活のバランスがあるだろうから、誰かにとっては正しかったりそうでなかったりするだけだ。 自分にとって、これは本当だ、と思っていたことは案外脆い。 それに、私の身体も外的環境も変わっていくから、遍く存在するある定言が今後私に適用することもあるだろう。 ヨーグルトのトラップについてはもっと早く気付きたかったものだ。 夜、レッスンが終わって帰ろうと駅に着くと、どしゃ降りとも言える雨が降っていた。 自転車だ、傘を持っていない。 3分くらい立ちすくんで、濡れて帰ることを選択する。 外に背負っていたリュックを下ろして、羽織ものを脱いでリュックを背負い、また羽織ものを上から着る。 自宅から最寄ではなく、一駅先の駅からずぶ濡れになって帰る。 家に着くころには、びっちゃびちゃであった。 だから今日自宅に自転車があって、自転車で出かけられる。 雨に振られて風邪を引いたことはまだない。
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先日、ギタリストである友人の新曲のミックスの作業にたまたま居合わせた。
「ミックス」とは知っているようで知らなかったが、音楽はとてもたくさんの音で合成されていて、その一つ一つの音を調整して最良化していく作業だ。 音の種類や数、大きさ、テンポなどなど、その掛け合わせともなるとそのパラメータ数は数知れず、文字通り気の遠くなる作業だ。 友人はライブはそういう意味で楽だ、と言っていた。 ライブはその時限りの演奏で良し悪しをあとで調整することなんてできない。 いかようにも、どこまででも、調整できてしまうものを、ある見えないゴールまで運ぶのは吐き気すら及ぼすだろうことは私でも想像ができる。 しかしながら、それに耐え忍んでやっていると、一筋の光が射すことがある。 そのことは書にも言えて、私も”何かよく分からないけれど絶妙なバランス”というものをいつも目指している。 それは何枚目で訪れるかは本当に分からないのだけれど、耐え忍んで調整を続けているとふと「あぁこれ!」と思うものが書けることがある。 大抵それをすくい上げて、毎日出している作品についてはそれをもって終了とすることが多い。 おそらく世のあらゆる作家たちは、地味で面倒な作業を嬉々としてやる人は少なくて、その一筋の光の満足感が何にも代えがたい満足感であるがために、何かを創っているのだと思う。 圧迫され続けて潜り続けてやっと呼吸ができたときの安心と嬉しさ、自分だけの喜び。 世の中にも私の中にも、様々なタイプの価値があるけれど、この類の価値は世の中の尺度としては劇的に低いのだけれど、自分の中にしてみれば劇的に価値が高いのだ。 ただ、渦中にいるときにはやっぱりちょっと辛い。 それを誰に頼まれるわけでもなくやるわけで、それをしない人から見たら、かつて私が彼らに対してそう思っていたように、気違いじみていると思うだろう。 私が友人の新曲のミックスに居合わせたのは最後の最後の仕上げ作業の段階だ。 料理で言えば、あと何粒塩を入れたら良いのか、何粒の砂糖を取り除いたら良いのか、みたいな段階。 まあ、料理において言えば溶けてしまった塩や砂糖を取り除くことはできないけれども。 私は音楽に乏しいので、そんな数粒の塩や砂糖の違いが分かるだろうか、と半信半疑に聴き比べるのだが、なんとなくは分かる、ような気がする。 この私の音楽に対する”なんとなく”には全然自信が持てないし、AとBの違いを見つけろと言われて実はAとBが同じだったとしても、私は何か違いがあると言ってしまうだろうという気もする。 ビールと発泡酒の違いも、二つ飲み比べれば分かるけれども、片方だけを出されたらどちらか分からない気がする、ということよりももっとはるかに繊細だろう。 ちなみにビールと発泡酒についても私は自信がない。 とにかく自信は全然ないけれど、できるだけ気持ちをフラットにして、手を離した状態にして、一部の音ではなく音楽の全体感を掴みとるように聴く。 気負い過ぎてもだめだし、気を抜いてもだめだ。 ああだこうだと言いながら、友人はパソコンのあれこれの数値をほんの少しずつ変えていき、「お、これが一番良さそう」というところは二人が一致した。 プロと無知識の二人が一致するというのは、やっぱり”よく分からないけれど良い”という領域が確かに存在するのだろうと思う。 そういうのは、大げさに言えば、生きていく希望になり得るなと思う。 あぁ良かったと安堵して、最近我々の中で流行りのフリースタイルをやってみる。 適当に思いつきで喋るのは本当に難しすぎるので今度は8小節のみの歌詞を書いて。 歌詞にはそんなにこだわらなくていい、まずはやってみることだ。 と、挑戦するわけだけれど、リズム感に乏しすぎる私にはやっぱり難しい。 ミックスの延長で8小節ずつ録音までして遊んでいたのだが、音楽家の友人はやっぱり上手かった。 だいぶ日が短くなってきた。 午後から夕方にかけて6時間ほどぶっ通しで生徒さん向けの半紙・半切のお手本を書く。 これを書くのは自分の鍛錬という意味合いがとても大きい。 一年前よりも今の方が上手い、そう感じていたい。 上手いって何?良いって何?という疑問を常に携えながら。 25歳のある生徒さんが初めて一人暮らしをするということで、別の25歳の不動産屋に勤める生徒さんに彼女を紹介した。
無事に物件を契約して10月1日から一人暮らしを始めるそうだ。 お見合いおばさんみたいなことができたのは何だか嬉しい。 この一人暮らしを始める方の彼女は、私にため口で話す。 7つも上なんだけどなあ、とか、あと一応先生なんだけどなあ、とか思わなくもないけれど、たぶん慕ってくれているという自然な現象でそうなっているのだろうからそれはちょっと嬉しかったりもする。 私にも年上なのにため口で話す女の先輩がいる。 ちょうど7つ上だ。 私はその人のことがとても好きで、いろんなことを教わったし、先輩の家にもトータル20泊くらいしていると思う。 他の先輩と話しているときにはそうはならないのにその人と話すときだけため口をきくのは、子犬が尻尾を振って近づいて、遊んでもらおうという魂胆を持っているからだ。 今私は生徒の彼女は子犬みたいでかわいいなあと思っている。 目がリスザルのように大きくて小柄なので、肩に乗せたいなんて冗談を言ったりもする。 「先生の家の家具ちょうだい」とか「先生遊びに来てもいいよ」とか言われる。 引っ越し祝いにアロマティカスの株分けでもあげようか。 いやでも株分けに成功した3つのアロマティカスは既に里親が決まっている。 もう一度親株を水差しにしようか。 あと、私は個人的に物件やインテリアがとても好きなので、お見合いおばさんのアフターフォローも勝手に手厚く行う。 採寸のこととか、私がよく見ているインテリアショップとか似たものが安価であるネットサイトとか、渋谷にニトリの店舗ができたこととか。 私はこういったものを見ていると本当に無駄に時間を潰してしまう。 今は引っ越す予定もないけれども、物件検索のアプリも2つダウンロードしていてよく見ている。 今の部屋は1Kなので、来客があるたびに寝具を片づける必要がある。 寝る場所をいちいち片付けるのはとても面倒だし、いずれアトリエのような作業スペースが持てたらなあと夢想するのが楽しい。 片付けなくても良いアトリエは結構切実に欲しい。 ここのデッドスペースにあれを置いて、動線確保のためにバタフライテーブルにしよう、この壁紙の色ならあんな色の軸装の書を飾っても良いかも、風呂はバスタブが無くてシャワールームみたいだけれど浸からないしかえって良いな、などなど。 本当に引っ越したくなってしまう。 引っ越しはお金もかかるしかなり重労働だし、移行期間の生活は圧迫される。 けれども、新しい住まい、新しい場所、新しい駅、新しい帰り道、新しいスーパー、新しい匂い・・・やっぱりものすごく高揚感がある。 生活の中で、そんな劇的な変化はなかなか起こせるものではない。 次に住まうところは、見晴らしが抜けていて気持ちの良い風が吹く部屋が良い。 アトリエも欲しい。 そんな予定はないけれど。 amazonプライムに「グレイズアナトミー」を発見。 数年前相当にハマっていた海外ドラマだ。 今見ると、前ほど興奮しなくなった。 依頼を受けた小さな命名書を仕上げ、やっぱりこれは可愛いなあと自賛する。 仕事を終えて、飲みに出かける。 新しくできた鶏肉のお店。 結構久しぶりに、「これは旨い!」と思った。 出品を終えて一息ついて、変な時間に夕寝してしまったものだから眠れない。
翌日のお題も四苦八苦して書き終えて、さてどうしようか、秋の夜長だ。 家で本を読む気にはなれない。 ちなみに「ドグラ・マグラ」はまだ読んでいて、2000ページ中1600ページには達している。 そうだそうだと、amazonでビデオを探してみる。 ざっくざっくと観るものはたくさんあるのだけれど、結局全然観ていない。 洋画よりも邦画かなと、いつか誰かが漫画が良いよと言っていた「海街diary」を見ることにした。 是枝監督の作品をそんなに知っているわけではないのだけれど、私の中では「誰も知らない」からぼんやりとした、でも分厚めの信頼を持っている。 綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆、広瀬すずが四姉妹として出てくる。 映画を見るときに、何て美形姉妹なんだ、なんて思う必要は無いのだけれど、何て美形姉妹なんだ、と思う。 これだけきれいだったら周りもそのことを言うのではないかと思うのだけれど、物語の主軸はそこではなく、彼女たちが美形であることに端を発しているエピソードはない。 複雑な家庭環境であったとしても、結果的に、帰る場所、全幅の信頼を置ける人、がいるのといないのでは、もしくはそれを自覚しているか否かでは、おそらく人格にも差が出る。 それは別に、血縁でなくても構わないと思うけれど、“絆主義”というものはいつの時代も確かに存在するものなのだろう。 “主義”というのはそれを採用する人が自発的に思っているだけで、実際に叶っているかどうかは別の話だと思うけれど。 先日二度目を観た「天国から落ちた男」についても、そんなことを思った。 広義的に、私の中のひとつのテーマなのだろうと思う。 もうひとつ、これもいつかに誰かから勧められていた園子温監督の「ラブ&ピース」。 こちらは突飛なファンタジーなのだが、何だか泣きたくなった。 先の2作よりも訳の分からない感動があった。 今まさに観終わったところなのだけれど、私が分析を苦手とするジャンルについての感動だったらしく、胸がじんわり熱くて何とも語れない。 最近100円ローソンで売っているほたるいかの干物にはまっていて、私はそれをライターであぶりながらいいちこの水割りを飲みながら観ていた。 ほたるいかは肝の部分が少し苦くて、じっくり旨い。 20日が締め切りの東京書作展の作品づくりに勤しむ。
去年良い賞をいただいたので、今年は一般審査の部からは外れるので幾分気が楽だ。 賞を獲得することに全力を注ぐわけではないけれど、コンクールに出品するなら成績は良い方が良いに決まっている。 比較的大きな作品を書くのは結構久しぶりなのだけれど、なんだかちょっと、上手くなったかしら、なんて思った。 小さなものでも、毎日何かしら形にするということをかれこれ9カ月ほど続けているのだが、少しずつ結実しているだろうか。 まあ、展覧会場で見たらそこにいる猛者たちの線を見て、あーーー、と打ちのめされるのだろうけれど。 大きな作品には大きな作品の、楽しみがある。 大きな字には大きな字の、小さな字には小さな字の、楽しみがある。 大きな字には大きな字の、小さな字には小さな字の、疲れがある。 大字書を極められたらいいのかもしれないし、米粒に字を書くような小さな小さな書を極められたらいいのかもしれない。 でも、私はそれをできる気がしない、定まれる気がしない。 決め切った形を、決め切った思いを、突っ切ることが何だか本当に出来なくなってしまったように思う。 それだけ私の見聞が広まったのかもしれないし、多々方々に私が散ってしまったのかもしれない。 私は何か描きたい確固たるモチーフが存在するのだろうか。 そんなものは無い、とすることで、私は何か安心してしまっているような気がするし、移ろいゆく全てのものの中で流されてしまっているようにも思う。 言いたいことなど特に無い、特別な主張も無い、ということが完全に負けないことへの盾になってはいないだろうかとも思う。 がしかし、言いたいこと、と言語の枠を決めるのであれば、やっぱりそんなに言いたいことなんて無いような気がしてしまう。 ただ、言語で言えないような言いたいこと、というのははあるのかもしれないとは思っている。 それに、言語や論理よりも優れた伝達方法については、必ずあると思う。 それが俳句や短歌のような言語を扱うものであっても、言語や論理を越えるものが、おそらくある。 しかしながら、私たちは他者に自分の何かが伝達したか否かを完全に確かめる術を誰も持ってはいない。 「大切なことには時間がかかる」といつかの友人が言っていた。 誰もが孤独であり、孤独を愉しむことができる人間でありたいと思いながら、やはり広義においてコミュニケーションということを基軸に置かざるを得ないのは、私だけの性ではないだろう。 タイピングが乗っているので、ブログの連投をしておこう。
今の感じの更新ペースだと、書の画像の方が溜まってしまう。 まあ1記事にたくさん書の画像を載せても良いし、別に載せなくたって良いのだけれども。 ヒップホップのフリースタイルのように、思いつくままに言葉に詰まらずに途切れさせずに書いてみよう。 フリースタイルを知って、推敲に推敲を重ねて言葉を紡ぐことも良いけれど、その場即興でとにかく何かを言う、吐き出す、ということにも興味を持っている。 というか、日常している会話は、ほとんどが即興なわけで既にやっている。 やっていないのは、リズムに乗せること、韻を踏むこと、勝敗を付けること。 今現在止まらない音楽の中で8小節毎に対等に何かを言い合う。 メディアの操作や上下関係などの柵が多分に在ったとしても、あのスピード感で全てを演じ切ることは無理だと思うからその人の何かが漏れ出でる。 先日友人とフリースタイルを試しにやってみた。 もちろんのこと、全然上手くできずラッパーについての敬意は上がる一方なわけだけれど、ビートの中に放り込まれて固まってしまったり、笑ってごまかしたり、ちょっと喋ってみると同じ事ばかり繰り返してしまうことがもうとても恥ずかしい形で露呈した。 そんなことは知っていたけれど、いざ自分でその自分の姿を目の当たりにすると情けなくもなった。 かと言ってその後フリースタイルの練習をしているわけではないのだけれど、こうしてできるだけ速く、バックスペースや挿入を使わずに文章を書いてみたり、書においても思いつく言葉を書き殴ってみるという実験をしたりはした。 しかしやっぱり止まらないビートという存在は大きいもので、そこに乗らずに結局いつもの自分の呼吸感に乗っ取られているような感じは否めなかった。 知ってはいたのだけれど、私が音楽ができないのは、既に存在している流れゆくものに付いていけないからだ。 この話だとおそらく私はサーフィンもできないだろう、やったことはないけれど。 自分のペースで良いのだ、ということはある側面においては然りだと思うけれども、結局我々は時の流れに逆らうことは誰もできないわけで、ビートに乗る、流れに乗る、という概念は必要な気がするし、それが私の生活にあらゆるところに足りていない気がする。 と、これも知ってはいたのだけれど、今これを書いていて何だか少し腑に落ちた気がする。 大事なことは、納得することで、腑に落ちることで、腑に落ちたいのだ。 『あきらめ』ということほど言い易くして行い難いことはない。それは自棄ではない、盲従ではない、事物の情理を尽して後に初めて許される『魂のおちつき』である。 これは山頭火の「赤い壺」の冒頭であるが、もう締め切りが迫っている展覧会でこれを書こうかと思っている。 そう、このこと自体の概念の存在は、知ってはいるのだけれど。 またしても、こんなことを書くつもりではなかった。 歯医者に行って、プールに行ったことを書きたいと思っていたのだ。 そう、歯医者に行って、プールに行ったのだ。 早起きして9時45分からレッスンを執り行う。
いつも10時半なのだけれど、今日は私のこの後のレッスン予定の都合で9時45分から。 私の始業時刻はたいてい11時としているけれど、毎週月曜日の朝に来るこの方はパティシエで、ほとんど週に一度しか休みがないらしく、そのお休みを寝て過ごすことがもったいないのでということで午前から習い事を入れて休日を有意義に使うのだそうだ。 この方は元々左利きで、最初はケーキにチョコペンで書くメッセージが上手く書けないといって私のもとにやってきた。 どうせ左手で書いても壊滅的な字しか書けないのでこの際右手でやります、と言うので、どうせなら筆ペン使って右手で基礎的なところから学んでいきましょうと、もちろんチョコペンではなく筆ペンのレッスンを行っている。 稀だけれど時々、左利きで字も左で書いていた人が、右でやるというケースがある。 確かに字は右手で書くように作られていて、特に筆文字はきちんとしたことをやるには右手でないと困難だ。 けれども何十年か左手で文字を書いてきたのに、今から右手でやるとは何とも字に対する情熱が凄い。 そして彼らは一様に努力家で、ある程度右手で書けるようになっていくものだから頭が下がる。 一応言っておくが、左利きの人が左利きのまま字を習っても上達しないというわけではない。 ただしそれは筆ではなくてボールペンであれば、ということにはなる。 そのパティシエの子が何か月か経ってだいぶ上達してきたとき、持ち場の変更がありチョコペンで字を書くことがなくなってしまったらしく、彼女は髪を切ってやって来た。 持ち場変更による作業内容の変化によって、髪を切るほどの喪失感を抱いたらしい。 左利きなのに右利きで習うという彼女の決意は私が思うよりもずっと大きかったようだ。 でもせっかくここまでやって来たからと、今も筆ペンで字の練習をしている。 細かい線のポイントを何度も繰り返し練習して、「できた!」「あぁこうか!」と、その体感が好きなのは職人気質だなと思う。 できるようになる、ということは誰にとっても、大人になっても、嬉しいものである。 そう言えば昨日も、ある生徒さんの飛躍の回を見た。 前回書いてきたものよりも何だか格段に良くなっていて、何が何というわけではなくて流れと線質のステージが変わったことを確実に見てとれたのだ。 「いやー、言うことないです」と私はしばし感動させてもらった。 ご本人曰く、「今まで忠実に写すようにということだけを考えていましたが、流れに乗ってスピードを出してみたら上手くいきました」とのこと。 自覚もあったようで、私としてはそれが嬉しいなと思う。 芸事何でもそうだと思うけれど、みんないつだってどこかの階段の途中にいる。 階段の平坦なところの長さは色々あって、やればやるほどおそらく平坦な距離が伸びていくのではないかと思う。 平坦な部分にいるとき、上達が感じられなくて諦めてしまったり飽きてしまったりする人もいる。 階段のてっぺんがどうなっているのかは知らないし、てっぺんがあるとさえ思えなくて、何のために階段を上りたいのかもはや謎が立ち込めてくる。 字が上手くなることも歌が上手くなることもギターが上手くなることも、人生において本当に急を要したりすることではない。 だから別に私だっていつ辞めても良いのだけれども、上手くなったり、うまくいったりすることがあることを知っているものだから、その幸福度が止められないのである。 大切なことは自己評価だ、と私はよく言う。 何級、何段、という決められた階級の話ではない。 その幸福を一度知ることができれば、きっとちょっとは外界に対する優しさも持てるようになる気がする。 だからほんの少しでもその階段を上った体感をしてほしいと思ってレッスンを行う。 と、何だか、久しぶりにこんなことを書いてしまった。 こんなことを書くつもりではなかった。 歯医者に行って、プールに行った今日の日のことを書こうと思っていたのだ。 アイロンとアイロンの熱で紙を張り付けられる裏打ち用紙を買った。
作品を現物として飾る場合、やっぱり書いたそのままの皺しわ状態よりも裏打ちした方が見栄えが良いし、額などに入れれば俄然見栄えも上がる。 普段作品を写真に撮って保存する場合、画像加工の力をひょいと借りてしまって、ともすれば現物よりもごく簡単に結構良い感じになってしまう。 現物をそのまま生で見たほうが良いものももちろんあるけれど、画像加工に慣れ過ぎてしまうのも恐ろしいものだなと感じている。 葉書に書いたり、木の板に書いたり、画板に書いたり、裏打ちをしなくても良いものに書いたりもするけれど、やっぱり書道用紙に書いたものは書道用紙にしか出せない味わいがあるので仕方がない。 今まで裏打ちを3度ほど自分でやったことがあるが、いずれも水糊を刷毛で塗って、という古典的なやり方をしてきた。 ライフワークのように頻繁にするのであれば上手くもなるだろうが、ごくたまにやるくらいでは勘所を掴めない。 毎度インターネットでそのやり方を検索することになる。 だから今回は、簡易的にアイロンでできる裏打ち用紙を試してみることにした。 私は日常的にアイロンを使うような服を着ないし、ハンカチにもアイロンをかけるなどということはさっぱりないので、家にはアイロンがなかった。 いや、数年前までは一応なぜだか持っていたのだけれど、引っ越しの時に要らないと判断して捨ててきたのだ。 amazonで適当に探した安価なコンパクトアイロンは、本当にコンパクトでびっくりした。 手のひらサイズ、ちょうどモルモットくらいの、そんな小ぶりのアイロン。 電源スイッチも温度調節機能もない。 コードを装着すれば電気が入る。 温度を下げたい場合は、当て布で対処すると説明書にあった。 私の自作句の書が欲しいとご依頼くださった方がいて、その作品を丁寧に丁寧にアイロンがけしていく。 私的に、同じ作品は本当にもう二度と書けないので、失敗は許されない。 中くらいの温度でと書いてあったので、当て布をしながらやると糊が全然溶けておらず張り付かなかったので、ゆっくりと直にアイロンを裏打ち用紙に当てていく。 水糊で裏打ちする古いやり方は、作品を一度霧吹きでびたびたに濡らして、その上水気のある糊を塗るわけなので、貼り付け作業が終わっても乾くまでどのように仕上がったのかは分からない。 でもこの裏打ち用紙は、少し霧吹きで湿らしはするけれど、アイロンを当て終わった時点でほとんど出来上がっている。 便利だ便利だと耳にしたことはあるけれど、確かに便利だ。 半紙がピンとなって、分厚くなって、ちょっと立派になる。 それを、別途仕入れた簡易的な額に納める。 最近手紙の代筆の仕事もいくつかやっていて、改めて字を売っているのだなあと思ったりする。 私が竹内恵美子であるという乖離感はだいぶ減ったとは言え、未だ多少あるのと同様に、今の私の仕事を私自身がこなしながら、そんな現実をやや不思議に感じているのである。 さてさて、句会。
最近はもっぱら締め切りの3日前くらいから季寄せを開くことしかできなくなっている。 日常的に筋トレをしないとなあと思う反面、怠惰なわが身を呪ったり甘やかしたり可愛がったりしている現状は、何も俳句だけに言えたことではない。 あるひとつのことをやっていくと、自分を過信することはなくなる。 ちょっと良かったり、全然ダメだったり、そんなことが延々と続いていくだけだ。 何か書いたり作ったりするとき、不意に降りてくる、なんて言い方があるけれども、そんなことはじりじり続けた後の彗星のごときご褒美に過ぎない。 在り物の散り散りに散らばった言葉たちを想像によって関連性を持つものたちを、いろいろな方向からくっつけていく。 少なくとも私は不意に何の脈絡もなく何かが舞い降りてきて何物にも代えがたい良いものができる、なんて経験はない。 それでも、じりじり続けた後にふぁっと閃く、ということは確かにあって、それは長いトンネルを潜り抜けたような気持ちがしてとても良い気分がする。 有り難いことに、前回の句会に続き、今回も特選をいただいた。 私が参加している句会は多分ちょっと異端というか、所謂正統派ではないのだと思う。 皆、ちょっとしたひねくれや小賢しさを俳句という世界の中に遊びながらお茶目にねじ込もうとしている感じがある。 だからつるりとした素直な句も、時々生きてくるのである。 私はこの句会のそんなところが気に入っていて、私の所属する書道の団体にも、異端感とお茶目感があるところを気に入っている。 団体運営側はそんな風に思ってないのかもしれないけれど。 以下、上の三つが投句作品で、一番目の句が特選、兼題は「まる」。 ナイターで地球の丸き中にいる 草いきれ生きていること教わりぬ 煙草屋の歯抜け婆のレモンスカッシュ 油絵の撫で肩の女(ひと)夏帽子 養生のビニル突き抜け夏の草 眼光と切っ先突き立てゼリー分く 小気味よく湯引き鱧待つざっざっざ 匙ならばフルーツゼリーを掬いたし 草いきれ~の句は意味が分かりやすいと思って投句したが結局無得点であった。 であれば、匙ならば~、の方が自分自身もお気に入りなので出せばよかったと後悔した。 まあでもちょっと分かりにくいとは思うので、無得点だったかもしれない。 いやしかし同じ無得点ならば、自分のお気に入りを出した方が良い。 いやまあ無得点であるかどうかなど当日になってみないと分からないのだけれど。 まん丸のほおずき添えて膳なごむ 東子 出た解を確かめているところてん 明子 この二つが今回他の方のもので、良い句だなと思った。 まん丸の~の方は素直で好感が持てる。 出た解を~の方は何だかよくわからない心許ない感じがするのだけど、一見脈絡のなさそうな言葉たちを繋げてうっすらそのイメージが浮かび上がったりする句が私は好みである。 この辺りが、やや異端感を生んでいるように思う。 句会仲間に最近ご結婚された方がいらしたので、その方のお好きな桝野浩一さんの短歌と「自覚的であれ当事者であれ」という書をプレゼントする。 結婚はめでたいことだ臨終はかなしいことだまちがえるなよ ハッピーじゃないエンドでも面白い映画みたいに良い人生を ともに、桝野浩一。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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