先日お手伝いをさせていただいた現代アートの展示会がまた秋にあって、応募してみようかなあといろいろと試行錯誤中である。
"書の"現代アートなわけだけれど、そもそも字を書かなくても良いのか、ということを皆さんの作品で知った。 書道の筆法を使った何か。 言うなれば、線的アートだろうか。 もちろん字を書いている人もいたけれど。 そもそも字を書けだなんて誰も言ってないわけだが、私は割と頭が固いので字を書くこと以外について発想をしなかった。 そもそも誰も彼も作品を作らねばならないなんてことが一切ないわけなのに。 私がそこで買ったひとつの作品はボンド墨で書かれた花の絵である。 水彩画でも油絵でもない書の人らしい花の絵である。 他にも、撫でるイメージの作品だったり、東上線の列車の音のイメージだったり、DNAのイメージだったり、様々なイメージの作品があった。 記号そのものを分解再構築して書いているものもあったり、もはや一般的な記号ではないものがあったり。 私はこんなことをやっていながらかなり「アート」という言葉にまだアレルギーを持っているため、例えば"純粋な"アートなんてものが存在するときの条件について考えることを避けている嫌いがある。 誰かに見てもらいたい、見てもらうために、つまり鑑賞者である他人を意識して書くものよりは、作家自身が誰に何を言われたって自ずとやってしまうような作品のほうが、"純粋な"もののような気がする。 そこには誰かに対する明確なメッセージも存在しない。 もし言語化できるメッセージなのであれば、わざわざ作品に仕立てる必要がない。 それを誰かに公開したとき、後から何らかのメッセージ性を帯びるのかもしれないし、あるいは作家のイメージからかけ離れて曲解されることも起こり得るかもしれない。 無論、それはその作品そのものの出来栄えも良くなければならない。 これは簡単に言えば、書や絵なら「見ていて飽きない」というところだろうか。 作品がひとりで独立していられるくらいの存在感は必要である。 一方で、何か目的があったときには、ここで言う"純粋な"ということも必要ないだろうと思う。 例えば作品を売って食べていきたいとなったときには、ブランディングもプロモーションも必要になる。 がしかし、"純粋な"ものの方が長期的に見て、この辺りのことにも成功をもたらすのではないかと思わなくもない。 何だか結局結局私の思考が堂々巡りになってしまうのだが、私はひとつの試みとして小学生以来初めて絵の具を買った。 私は結構、色が好きなのだ。 でも、墨もまともに扱えないのに、色を塗るなんて1000年早いわと思っていたので保留にしていた。 しかし私、到底1000年も生きられない。 絵の具にどんな種類のものがあるのかさっぱり知らなくて、イメージ上べたべたとしたものが良かったので油絵の具を買ってみた。 絵を描くキャンバス布に、ストックしてあった言葉を紙面上に散りばめて書いてみる。 恐る恐るパレットに絵の具を出して塗ってみる。 楽しい、とっても。 こんなことやって良かったんだなあと、また自縄自縛的な行動を目の当たりにした。 説明書などを全く読まずにパレットと絵筆のみを買ったのだが、油絵の具は絵の具を落とす専用の液体が必要であることをシンクをべたべたにした後に知った。 あと、油絵の具は乾燥剤のようなものを混ぜないと全然乾かないことも知った。 アクリル絵の具でも、盛り上がったような質感にするクリームのようなものがあることも知った。 あまりに初歩的なことで、知らないことが多すぎる。 まあでも楽しかった。 批評を下さる主催の方に送ってみると、「ミロみたいだからちょっと・・誰かっぽいというのはその時点で審査から漏れてしまうよ」と言われた。 私はミロという画家は名前と代表的な絵のイメージをうっすら持っていたくらいだが、確かに私自身も書いた後ミロみたいだと思った節があった。 まあ実験は始まったばかりだし、何だかたぶん私は自分で書いていてしっくりくるものを見つけるにはとても時間がかかりそうな気配がしている。 数日前にいもうとが遊びに来て、「これ欲しい」と言った。 冗談やお世辞を言う人ではないと思うが、「売ってあげようか?」と冗談めかして私が言うと引きさがっていった。 私はこれをまだ誰かに渡せないなと、少し思っていたのだと思う。
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サウナに行きたくてわざわざ調べて電車に乗って出かけて行ったのに、そこの銭湯は今週は男湯がサウナ付きの方で女湯は無いのだと言う。
隣り駅にこの前行った銭湯があることは分かっていたけれど、せっかく来たのにと思ってとりあえず風呂にだけは入ることにする。 風呂に入りたいのではない、サウナに入りたいのだ、と思いながら悪くない風呂に浸かって、こんな温度の身体で水風呂に入りたいのではない、と思いながら水風呂に入ったらそれは案外心地よくて、何だかそれなりにととのってしまった。 それでも銭湯のはしごをしようかとか何度か熱い風呂と水風呂を往復する間に考えを巡らせていた。 風呂から上がるとやっぱり帰りたくなって、住宅街のど真ん中にある銭湯から夜道をふらふらと帰ってきた。 たこ焼きと煮魚をスーパーで買って、昨日の残りの黒霧島を飲むことにした。 久しぶりに、何かとても大きなものを不意に喪失した気がする。 喪失するようなものがまだあったのかと思うのだけれど、喪失した気がする。 何を喪失したかというのは、言葉で言えばおそらく、偶像、ということなのかもしれない。 色んなものとの折り合いを付け、色んなものに合点がいき、さてどうしたもんかと思う日々がここ1,2年続いていたわけだが、ずっとあるひとつのことに囚われているような気はしていた。 それは、偶像など決して崇拝しまい、と思っていたまさにそのことが偶像崇拝だった、ということだろうと思う。 偶像だと認識していなかったものがまさに偶像だったわけである。 ここで言う偶像とは、他人を含む私以外の外界の思想の拠り所、とでも言おうか。 依存しないことに依存している、それそのものが私の偶像崇拝だったのだろう。 このことの仕組みや構造については前々から分かっていたようには思う。 全体的に薄々と嫌気がさしたりしていたことはあるから、偶像であると思わないように自分でコントロールしていた感じだ。 しかしながら私は偶像に小さくない期待を寄せてしまっていたのだろう。 その期待とは、私のことを正しく認識させて且つそれを良いものだと賞賛させることだったと思われる。 永遠に正しく変わらない確固たる私も、またそれを正しく認識され続けることも絶対にあり得ないと知りながら。 ただ時は流れていて、物は風化し、私や他人の身体も脳も進化したり劣化したりなど変化する。 そんな不確定しかない自分や身の回りを含めて、私はまだ何か特定の事柄に期待していたのかと思うと不甲斐なさを感じざるを得ない。 理解する、ことと、腑に落ちる、ことは、全く別のことである。 ここ数年で幾度か私はいくつかの事柄について不意に腑に落ちたことがある。 それを知ったまさにその時は、なぜそんな自明のことにも気づかないのだろうと自分の馬鹿さ加減に嘆き、それまでの素行に対しとても恥ずかしく思ったりした。 結局それはその時点にしか分からないことで会話したり表現したりするしかないものだから、仕方のないことだのだけれど。 その一方で、自分がアップデートしたような気持ちになることはひとつの解放でもあり、胸を撫でおろしたりもする。 あと、この過程において、すべてが偶像崇拝によってできていたものではないことも確かな気がする。 これらのことは、自分自身のことに他ならないのにも関わらず、~な気がする、~だろうと思う、などといった推量でしか話すことができない。 そのくらい自分が曖昧なものであるかは分かっているつもりである。 おそらく、とても優れた文筆家がどんなに適切な言葉を用いて自身のことを説明しようとしても上手く伝えられないだろうと思う。 伝わったかどうかも永遠に検証しようがない。 という取り留めのない考え事をして、煮魚のパックを片づけようと思ったらまだ潤沢に残っていたタレごとひっくり返してしまった。 バブーシュの爪先が茶色く染まる。 元気で大きなブラッサイアの木の下で、喪失についての鈍い衝撃を身体に馴染ませている。 前回さぼってしまった句会に出席。
最近は筋トレのように俳句を作ってはいないので、行き当たりばったりの推敲不足の句になってしまうことが多い。 下記の上三つを投句して、全部に点が入ったことは良かった。 死に顔は何事も無し山笑ふ 鍋滾る青菜膨るる春日和 五月晴れタオル干すバシバシになる 春日影香煙昇る骨白し 骨を待つ焼き場の談話笑ふ山 こっそりと最期の一打春の果 誰も居ぬ仏間の影や春の昼 連れ合いの手招きで逝く春の果 創作の意味は雲間に朧月 屋根上のひこうき雲と春の汗 おじいちゃんとおばあちゃんの死についての句が多い。 今回句作していて気付いたことは、私にはほとんど季節感というものがないということである。 季節感を重視する気持ちがない、と言った方が正確かもしれない。 季節はいつだって訪れたり去ったりしているし、夏が好きとか言ったりもするけれど、それは私の背後でどうしようもなく起こっているものだ。 季節を追いかけまわすことはしない。 そもそも季節というのは、哲学者の池田晶子さんに言わせれば「無い」ということにもなりそうである。 ただ、この地球では、雨が降る日が続いたり、花がたくさん咲いたり、暑かったり寒かったりするのが、日本では同じような周期で回っているというだけだ。 その「無い」ものについて輪郭を与えるのはいかにも人間がやりそうなことで、「無い」ものを「有る」と仮定して、そうしたものを使って遊んだりするわけである。 おじいちゃんとおばあちゃんがたまたま春と呼ばれる時期に死んだので、事実と背景を重ね合わせてみたりする。 ちなみに、「死に顔は~」の句は、「死に顔は何事も無し小鳥来る」が最初に思いついた。 「小鳥来る」は春の季語だと思っていたのだが、秋の季語であると途中で気付いて慌てて「山笑ふ」にしたのである。 とにかく、おじいちゃんとおばあちゃんが死んだという事実は季節とは関係がない。 たまたま、山が笑っている季節だったのだ。 まあどちらでも句としては成立すると思うが、私としては「山笑ふ」はきれい過ぎてしまうのと以前にも使ったことがあるので、「小鳥来る」の方が新しくて可愛らしくて良いなと思っているくらいである。 「言語野があたたかくなる今日が好き」という季節を無視したいというような内容の句を作ったことがある。 あまり意味が伝わりづらいと思うが、このとき言いたかったのは、季節なんて私には関係がない、それよりも大切なことがある、というようなことだったのだろうと今思い返している。 とても大きな観葉植物と中くらいの観葉植物を部屋に迎え入れた。
とても大きな観葉植物は低めの天井まであと15センチといったところなので、その存在は部屋の雰囲気を一気に牛耳ることとなった。 私は植物が大好きで、窓辺には既にいくつもいくつもある。 さながらプチ植物園である。 これまで、机上に置いてあっても良いくらいのものしか育ててはこなかった。 大きな観葉植物は値段も高いし、もしもダメになってしまったときの処分やら何やらを考えると手を出せずにいた。 ただ、引っ越して部屋が広くなったことと、植物の卸業者さんと知り合いになれたので、ならばと思い立ったわけである。 朝6時半に起きて、横浜の港北地区にある植物屋さんに行く。 目星の植物はあったけれど、その場の出会いに任せようとなるべくフラットな気持ちを携えて行きの電車とバスに揺られた。 植物が発する独特の匂いと湿気のあるビニールハウスの中には、元気な植物たちがひしめきあっていた。 部屋の陽当たり通風などの条件を聞かれ、各々の植物の難易度を教えてもらう。 幹が太く立派で葉っぱがとっても溌剌としている、背は大きいけれど嫌みのないシルエットをした一本の木が目に留まった。 あぁこれかな、という気持ちがした。 あぁこれかな、というそれを私は探しに来たのだ。 しかしながらうっかりその植物の名前を忘れてしまった。 中くらいの方はアルテシマ、だけれども。 観葉植物は光よりも通風が大事らしい。 風が吹かない、空気が動かないと忽ち元気を失ってしまうとのこと。 大切に育てていきたい。 さて、相も変わらずサウナに行っている。 たいていサウナに行った後に飲んでしまうわけだが、飲まずにほこほことしたまま眠ることをしてみたい。 そう言えば、数日前に「名探偵コナン ゼロの執行人」を観に行った。
「この世界の片隅に」以来の映画館である。 前々から楽しみにしていたわけでも何でもなく、私がそれを観に行く前日にレッスンに来ていた若い女の子がその映画を既に9回観ているというものだから観たくなったのだ。 コナンは昔漫画も読んでいたし、結構好きだったのもあったけれど、ここ数年の動向はさっぱりわからない。 彼女によると、公安のアムロトオルという人物がかっこいいということで20代半ばくらいの女性に絶大な支持を得ているらしい。 それにしても、同じ映画を、なんと9回。 9回である、9回。 レッスンに来ていたその日もまたこれから観に行くのだと言う。 なんと10回目。 観始めてから2日に1回ほどのペースで行っているらしいし、初日などは1日で連続2回観たそうだ。 この調子なら鑑賞回数はさらに増えるのだろうし、楽しそうな日々である。 いつになく興奮気味に話す彼女を私はほほえましく思っていた。 その日彼女がフリー課題で書いてきたのは主題歌の福山雅治が歌う「零 -ZERO-」だった。 それならばと、普段映画館に行かない私も行ってみるかと思った次第だ。 人が強く推してくるものについて私は結構弱い。 彼女の言うとおり、映画館は20代半ばほどの女性たちでほとんど満席で、最前列しか取れなかった。 祝日の前日だったからということもあるかもしれない。 映画は寝ずに楽しめた。 というか、結構面白かった。 確かにアムロトオルがファンタジックにかっこいい。 実写では叶わないあり得ないアクションシーンは迫力もあるし、一方で笑えてしまう。 テレビではなくて大きなスクリーンで観る価値がある。 とはいえ私はコナンにハマってはいないが、何かに熱狂的にハマるとき、それが自分にとってどういうことなのかということに私はとても興味がある。 なぜこんなにも心が動くのか、そこには何らかのマインドブロックが存在している、あるいはしていたことが多いものである。 本来、身体が先に反応するだけで良いのかもしれないけれど、それを言葉にできたときの快感は甚だしいというか私にとっては安心感を呼ぶようなことでもあり、また、明文化できたのなら他の似たような事柄にも活かせるかもしれないと思う。 自分にとって汎用性が高い言葉を見つけることは難ししくて楽しい。 ただ明文化には時にとても時間を要する。 何年もかかったり謎のまま死んでしまうということもあると思う。 できるだけ心身をフラットに整えておかないと、掴みかけたそれはするりと抜け落ちて、あるいは掴みかけていることにも気づかずに、快感を得るきっかけを逃してしまうかもしれない。 あと結局、とても純粋な身体的反応、脳的反射としか言いようのない自分自身の傾向というのもあるだろうから、最初から明文化できるような答えなど無かった、ということもあるような気がする。 だから考えても無駄という気もするが、答えが無かった、ということを知れれば良いのでやはりまあ考えるのも悪くない。 かなり久しぶりにギターを触って指がとても痛い。 数年前に覚えた簡単なコードたちは案外忘れていないものだが、やはりブランクがあると全然上手く音が出ない。 指先もさることながら、セーハしている人差し指が腫れてしまった。 金属のワイヤーにぎゅっと指を押しつけているのだから当然だし、別にギターなんて弾かなくたって良いのだけれど、指が痛くたって音を鳴らしたくなったというただの無駄な我が思いは愛おしいなと思ったりする。 そして、これは怠慢がいう言葉だが、ギターを思いのままに操れる人は本当に羨望の的である。 すっかり暦通りの休日とは程遠い私であるが、お休みを作って、友人の結婚式のため京都へ。
京都も結婚式も何年ぶりだろうか。 友人には興味があるけれど、京都にも結婚式にもさほど興味が無い今日この頃である。 今にも足を捻挫しそうな黒のヒールを紙袋に入れて、紺のワンピースに黒ストッキング、スニーカーという格好で新幹線に乗る。 いつもはしないゴールドラメのアイシャドウとシャネルの口紅、マスカラ、真珠のピアス、キラリとネックレス。 面倒だと発するくらいならすべてやめてしまえば良いのだが、久しぶりに自分をぬりぬりと盛り付けてみるのも悪くない。 しかしやはり、身軽ではなくとても身重感がある。 意味が違うが。 私は友人関係がほぼ一対一なので、結婚式などに稀にお呼ばれすると周りに知り合いが全然いないという状況になることが多い。 でも友人もそのタイプなので、ひとりで来ている女の子たちと席を囲んで楽しくおしゃべりした。 式は滞りなく執り行われ、私は1時間ほど電車に乗って大阪に向かった。 最近サウナづいているので、サウナのある宿に泊まりたいと検索したら女性専用のサウナカプセルホテルがヒットした。 もうこの3ヶ月くらいで20回ほどは行っているが、ひとりで行くのは今日が初めてかもしれない。 ひとりでうきうき行ってしまうくらい、サウナが好きになったのだ。 こんなに嬉しいことはそう簡単には起こらない。 汗をかけるようになりたい、というのが当初の目的ではあったのだが、それもそうと私はサウナに「ととのい」に行っている。 「ととのう」とは「サ道」(サウナ道)という言葉の発案者の言葉だと思うが、言わばサウナ的トリップのことである。 音楽や書道やマラソンや読経などで起こりうるトランスとは少し違って、外部から圧倒的な刺激を肉体に与えることで起こるものである。 思考はほぼ必要とせず、肉体の反応を感じるとるだけで良いから各々「道」たるものからすれば、その境地を知ることはかなり簡単な部類だ。 友人が、サウナ的トリップはシーソーのような自律神経が完全フラットになった時のことを言うのでは、と言っていたのには至極納得した。 例えば胎児だった頃、お母さんのお腹の中で酸素も栄養も勝手に流れてきて、何の心配もすることなく温かくてぷかぷか浮いているだけの状態はおそらくかなり自律神経フラットの状態に近いだろう。 まあお母さんの状態に左右されたりはするだろうけれど。 一度産み落とされたら、お母さんからの酸素と栄養は断たれ、自分で呼吸して自分で栄養を摂ることになる。 外気はお腹の中よりも乱高下するし、呼吸以外は一個体としての選択を無限かのように迫られる。 そんな中には当然ながら快不快があって、自律神経の揺れには経験を貯めて対応していくことができるようになっていく。 とても多様な要因で私たちの自律神経はぎっこんばったんとしていて、交感神経が働きすぎても副交感神経が働きすぎても、生きるのに大きな支障が出る。 仮にサウナで「ととのった」というあの状態のことを自律神経のフラット地点だとすると、あのえも言われぬ状態は至福と呼ばざるを得ない状態である。 「ととのう」ためなら多少の我慢さえしたくなる。 再び、何度でも、「ととのいたい」と願うことになる。 かつては全くの普通だった「ととのっている」状態が、生きている間に失われ続けているのだろう。 だから、「ととのっている」状態にあると、とても珍しい体験をしているようにも思える。 そして懐かしくもある。 さて、サウナで「ととのう」ことをそれまで知らなかった私なのだが、「ととのう」というのはめくるめく快感ということではない。 どちらかというと、無であり凪状態である。 耳を手で塞ぐと血の濁流音が聞こえるような感じがするが、あれが耳を塞がなくても起きているような感覚が全身に巡る。 楽しくもなければ悲しくもないし、喋りたくもないし、考えたくもない。 ただ、「あぁ」という感じだけ。 もちろん、風呂場でずっとそうしている訳にはいかないし、絶頂にととのっている状態は10分くらいなものなので、またサウナに戻ったり水風呂に浸かったり、風呂から上がって一服したりする。 いろんなサウナがあるが、今回行ったところは「ローリュ」というサービスがあった。 ロウリュとは、既に熱々のサウナ内にある焼け石にアロマ水をかけて蒸気を立たせ、ロウリュ係の人がタオルを振り回してその蒸発したばかりの高温ミストをサウナ室全体に行き渡らせてくれるサービスである。 たいてい、一人ひとりの目の前でバスタオルでバフっと風を起こしてくれもする。 初めて豊島園でロウリュを体験したとき、サハラ砂漠で顔が焼き切れると思った以上の熱気に耐えられずにサウナ室から退散してしまったことがあった。 今はそれなりのサウナの練習を積んできたので、この熱地獄を楽しむことができたばかりか、やっと私は念願のだくだくの汗をかくことができた。 顔から腕から首から、汗が流れながれるなど、初めての体験である。 やった、やっと、やってやった。 それにしても、95度とかいう部屋で蒸気を裸で浴びたり、その後すぐに10数度という水風呂に浸かったりしても、我々は死なないのも不思議だと思う。 それどころか体感としてこの行為は健康に良い感じがある。 せっかく大阪にいるわけだが、翌日の朝、チェックアウトぎりぎりの12時まで朝食もやめてまた風呂に向かう。 ロウリュありがとうと思いながらまた汗がかけた。 しかし、ロウリュがないと汗がまだうまくかけないのは修行不足か体質の限界か。 ちなみに、カプセルホテルは初めて泊まったのだが、とてもとても快適だった。 ひとりというのが良かったのかもしれない。 狭い布団だけの部屋というのも快眠できた。 ふたりにはふたりにしかできないことが、ひとりにはひとりにしかできない楽しみがある。 どっちも良いが、昨日においてはひとりで良かった。 暇なので、なんばから大阪駅まで歩く。 ととのい後の身体はじんわりとしてぼーっとしている。 途中、たこ焼きとスーパードライを。 これもひとりでやるとあまり楽しくないような気がしていたが落ち着いて楽しめた。 お母さんの臍の緒と関係なく私は歩いているわけで、大人になったなあなんて思った。 もう雑踏を歩き回る気がしないので、カフェでこれを書いている。 |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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