かえるくんは心の予定日には出てこなかった。
まだ出てきていない。 まあ、そんなものなのだろう。 もう少しお母さんの身体と同体でいたいのね、と都合よく考えてみる。 その世とこの世は圧倒的に異なるものね、と。 「この世あの世」という言葉はよく使うが、”その世”、というのは今しがた初めて使った。 ”この世”は現世の我々が生きている世界、“あの世”というのは死後の世界、そしてここで言う”その世”が母体の中で息づく胎児の世界。 “あの世”の有無は私には分からないけれど、“その世”は確実に存在するだろう。 胎外の人間世界では、“その世”を経て、“この世”に生き、“あの世”へ逝くということになっている。 稀に、“その世”から“あの世”にジャンプしてしまうこともあるだろう。 しかしながらやはり、この考え方も全て“この世”に生きうる誰か主体者が規定しているだけだから、そんなものは無い、とも言えるかもしれない。 また主体者しか考えを認識し得ないのだとすれば、胎児にとって今私が言う“その世”が“この世”でしかないという言い方もできる。 通常“この世”では、「この世に生を受ける」、と言ったりするが、それは精子と卵子が受精したタイミングでもなければ母体に着床して細胞分裂を始めたタイミングでもなく、空気に触れて肺呼吸を始めたときを指すだろう。 「生後」、なんて言い方もある。 しかしながら“この世”“その世”は生命活動が行われている世界で、“あの世”は生命活動は行われていないと線引きすると、“その世”から既に命は確実に始まっている。 にも関わらず、”その世”の胎児の世界は、何百倍何千倍にも大きくなって恐るべき変化を遂げる生命活動が日々怒涛の如く活発に行われているのに、“この世”の「人生」ではあまり重要視されることはない。 それは“この世”でいう記憶や意志を“この世”に持ち込めないからだろうか。 胎内記憶というものは各所で語られるが、誰一人それを“この世”で明確詳細に語ることはできない。 無論言語が“この世”のものである以上、“その世”では言語は存在しないのだからそれを新鮮に取り出すことは不可能である。 しかし“この世”の私も私自身の“その世”のことを全く憶えていないので、是非“この世”に生き始めて言語を得たかえるくんがもし生の胎内記憶のほんの僅かな欠片でも持つのならばなるべく新鮮に聞いてみたいものである。 “この世”の私が比較的近距離の“その世”のことを想像するのは楽しい。 “その世”は安全で居心地が良いとされているが、本当にそうなのだろうか。 “その世”の終わりは明確にはいつなのだろうか。 “この世”の空気に顔を出して肺呼吸を始めるときだろうか。 経膣で自然分娩の場合、“その世”の終わりは胎児が決めるのだろうか。 “この世”の終わりは自殺以外には自分では決められないことになっているけれど。 “その世”から“この世”への過渡、産道を通るときはどんな気持ちなのだろうか。 “その世”の世界は、我々人間がそれぞれ本人としてそれなりの期間全員経験したことであるにも関わらず、かなり摩訶不思議だらけである。 他でもない自分自身のことであるのに、全然さっぱり、なのである。 そもそも本来、自分自身など、そんなもの、なのかもしれない。 さて、まあ、かえるくんが“この世”へ無事に渡ってきてくれることを日がな一日祈っている。 “この世”の私と言えば、いくら産休とは言え、出歩くとすぐにひいひいと酸欠貧血を起こすので出かけることがままならない。 だからと言って一日中家の中にいるのも気分が滅入るものだ。 というよりは、私は元より家が大好きなので気が付けば一日中家にいることになってしまうのだが、それも身体に良くない気がして気分が滅入るのである。 ならば車で出かけてみようとカーシェアを使って外出を試みる。 車の助手席に乗っていると、産科の内診台のイメージがリンクする。 ちょうど一人分の椅子でリクライニングがきいて、横向きにはなれず仰向けでいなければならないところが。 このままお尻の方が持ち上がってくるのではなかろうか。 酒も飲めない、大きな公園も歩き回るので厳しい、銭湯施設も無理、そうだカフェに行こう。 いつかにやったように本を読みに行こう。 車なら座っているだけだからと高をくくっていると、次第に姿勢が辛くなってきてふうふうとなる。 運転手に無駄な心配をかけて運転に差支えが出ては困るので、ひとり静かに呼吸を整える。 妊婦にも大いなる個人差があると思うけれど、日ごとに辛みが増している。 カフェを二軒はしごして帰宅。 本も読み進んだ。 夫は私のわがままに全面的に付き合ってくれる。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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