機械音が好きな息子は、電車のアナウンスとか、喋るエアコンのアナウンスとか、喋る炊飯器のアナウンスをよく復唱している。
英語のアナウンスまで真似して長々とひとりで喋っている。 これも発達障害に見られる行動のひとつ、といつかどこかなにかで読んだ気がする。 「もう一度、行き先ボタンを押してください。地上階にエレベーターが到着します。開くドアにお気を付けください。」 「まもなく新宿三丁目です。お出口は右側です。足元にご注意ください。This train is bound for Ogikubo」 「クックがおいしいもちもち白米を完成しました。ご飯をよくかき混ぜてください。」 「除湿、18.5度に設定しました。」 などと本当によく覚えて喋る。 まあもちろん、意味を分かっているわけではないので、発音はとても適当であるが。 他にも、ヨドバシカメラの歌が好きで、「まあるい緑の山手線、真ん中通るは中央線、新宿西口駅まのえ(必ずこう言う)、カメラはヨドバシカメラ」と歌った後に、「みてください、この人気、ヨドバシカメラのこの在庫、この広さ。~~~新宿西口ヨドバシカメラ!!」というCMが気に入っていてよく披露してくれる。 息子は3歳にしてひらがなを全部読むことができ、カタカナも最近少し分かるようだ。 「エレベーター」「ホーム」など自分の好きな範囲にあるカタカナを読んでいる。 特に最近は「防犯カメラ」のシールを見つけるとすぐさま「防犯カメラ!!!」と反応して読んでいる。 絵的に覚えているのだろうけれど、縦書きでも横書きでも、手書きでも、PC上の小さなフォントでも「防犯カメラ!!!」と言うのでやはり読んでいるのだと思う。 数字を100まで数えることができ、さらには英語でそうすることもできる。 「29は?」と聞くと、しばしの検索時間を経て、「とぅうぇにーないん」と返ってくるので、その対応関係を分かっているらしい。 私はこのことを、単純な気持ちで「すごいじゃーん」と思っている。 いつだって人間にとって、何か出来るようになることは「すごいじゃーーん」と喜ばしいこと以外に何もないと思う。 ちなみにひらがなも英語も、親が懇切に教えたということは全くない。 私も夫もざっくり言えば放任主義的な方向ではあり、さらに言えば、英語よりも日本語をきちんと身につけてほしいと思っているので英語を幼いうちから覚えてほしいなどとは全く思っていない。 だが、本人の興味関心を止めることもしないので、YouTube動画で勝手に覚えたというわけだ。 がしかし、通常の会話は確かにあまり進まない。 自分のしたいことは、「こっちこっち、これこれ」と便利な指示語一辺倒に訴え続ける。 質問文には質問文のオウム返しをし、キャッチボールは行ったっきりである。 とにかく語彙力がない。 語彙力というよりは、人と会話をするコミュニケーションの部分において不足が顕著なように思う。 所謂「おしゃべり」はほとんどできないと言って良い。 (まあとはいえ「なんさいですか?」などの教え込まれた質問には答えることができる。) とはいえ、こちらが言っていることはほぼ分かっている様子で、「やめて」と言ったことは多くのケースで止めてくれる。 私が叱ったり怒ったりすると、これが人間か、というような複雑な表情を見せたりする。 ここまで、3歳と数か月、保育園からの指摘や検診での指摘をちらほら、いやたくさん受けてきた。 その度に、確かにそういう節がある、ということは納得をしてきた。 そうなのかもしれない。 だがしかし、私と息子の間では、本当に何かコミュニケーションにおいて困っているということがない。 私には、特別に手を焼いているという印象がないのである。 もちろん、言い方次第では、特別に手を焼いていることしかないけれども。 全て万事順風満帆、ということはもちろんないが、それはどの家でも同じだろう。 息子の一つひとつの行動について、私は結構納得がいくし、その気持ちが想像できなくもない。 そういうことやりたいよねえ、と共感することばかりだ。 変だ変だ、と周りから言われることが多いのだが(もちろんそういう言い方では言われないが)、私は認めたくない何かとかではなく、おそらく本心ままに、全然息子のことを変だと思っていない。 それは私が変だから、ということはあるのかもしれないけれど。 これは私のただの肌感覚だが、「発達障害」という言葉が現代は膨れ上がっているように思う。 もちろん、ケースバイケースで支援が必要な場合は支援をすれば良いと思うのだが、そもそも人間は誰しもが多かれ少なかれ発達障害気味であることを忘れてはならない。 皆が発達障害であるから、人間はそもそも根本的に支え合わなければならないのだ。 脳的な偏り、ムラがすなわち個性を生む。 その個性が社会にとって役に立ったり立たなかったり、その個人において役に立ったり立たなかったりするだろう。 それは変数が多すぎて分からないし、可能性もただ未知である。 集団を、社会を、全く気にせず生きろ!とは毛頭思わない。 集団、社会的であることが人間たらしめているのだろうし、人ひとりで生きられないのは火を見るよりも明らかである。 私は別に上流階級でもなければ、個人的願望の下に全面的に息子を甘やかしたいわけでもなければ、時代の潮流に乗って全開なる花を開け、と願っているわけでもない。 息子には息子の人生を、息子の考えるように生きていって欲しい。 大きくも小さくもなく、母の願いはそれだけだ。 だけれども、幼い彼の頭脳では生存にさえ危ういので、最高責任者の両親が口出しをしなければならない。 果たして、”生存”を守る口出しは、どこまですれば良いのだろうか。 息子が変わらず可愛いことは、今日も変わりはないけれど。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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