ペンフレンドが出来た。
ペンフレンド、死語だろうか。 ペンフレンドではなく、筆友達、か。 御年90歳を超えるお方。 参加しているフェイスブックの書グループの主催者のお父様。 静岡の三島にお住まいで、たぶん80年ほどは筆を持ち続けている方なのではないだろうか。 この方はフェイスブックのアカウントは持っていないのだが、主催者である息子さんに参加者の書を見せてもらうのだろう、気になった書を書く人にお手紙を送るのが楽しみらしい。 私の書も目に留めていただけたことがあったようで、息子さんから私に差し支えなければお手紙の送付先住所を教えてくださいと連絡があった。 是非とも、と、文通が始まったのである。 数日後、書家らしく、堂々でかでかと宛名が書かれた豪快な封書が届いた。 巻物のような細長い紙に、つらつらと草書体やらカタカナ混じりの筆文字のお手紙が届いた。 古文書のようである。 まず、パッと見は私も読めない。 書家と言えども、草書を読むことというのは簡単なものではない。 草書は様々な書き方があるし、前後の連綿などや書き手の癖、まして手紙文のようにラフに書かれたものはたまたまそうなったややいびつな文字というのもある、を含めると、前後文脈から類推するしかない部分も多くあるものだ。 もちろん、私の不勉強という面も大いにあるが。 しかもこの方、「拝復」「老耄し」「被下度」など手紙文独特の言い回しを多用されることに加え、文末や助詞が「デス」「ニ」だったり「升」だったり、時に変体仮名が使われていたりと、実に自由に書かれるので、最初の手紙は恥ずかしながら困惑してしまった。 どうしても解読できないところを写真に撮って、書仲間に送って一緒に読んでいただいた。 2通目3通目は、言葉づかいや筆致にも慣れてきて少しずつ解読スピードも上がってきた。 そうなると、私も同じような風合いのお手紙文を書かなければならないだろうか、と一瞬気に揉んだが、それでお返事をお待たせするのはペンフレンドとしては失格である。 ペンフレンドで重要なのは、手紙文の書的な出来栄えでも文章の巧さでもない。 たわいもないことを手書き文字で郵送し合う、というところにある。 普段通りで良いのだ。 元より、私は文通が好きである。 私が小学校だった頃はまだ雑誌の終わりの方のページにペンフレンド募集の住所名前が載っていたものだ。 実際にそこから文通していたこともあるし、母の友達のお子さんやらとも文通していたことがある。 何を書いていたのか思い出せないが、相手からの返信をまだかまだかと待ちわびて、手紙を受け取るや否や嬉々として返信を書いて投函していた。 今思うと、私の文通に対する熱量が大きすぎて釣り合わなくなり、次第にやり取りされなくなっていったのだろうと思う。 おそらく、文通が好きというのはかなり特異なことなのではないかと思われる。 話好きということを前提に、しかし対面や電話でそうするでもなく、文字を書くこと、文章を紡ぐこと、即時的でないコミュニケーションを好むことを要する。 実際に会ったことのある知り合いと文通するのも良いが、全く見知らぬ人とやり取りに高揚することも文通好きの特徴ではないだろうか。 また、書を愛する人が文通好きとも限らない。 所謂筆まめと、紙面に文字の美を求めることは必ずしも一致しないものである。 文通で起こるコミュニケーションは、郵送という性質上、非常に緩慢なものである。 しかし、緩慢さにかまけて返信までに間を開けてしまうとそこで文通は途絶えてしまうことが多い。 郵送以外の伝達手段がある以上、そもそもはなから文通など全くもって必要のない、人生的余剰で行うことだからだ。 だからこそ、楽しいのだけれど。 また互いに伝えられる事項は、事細かなことではなく断片的なものだ。 日々のほんのひと匙を掬い取って、あくまで気軽に時間をかけ過ぎずにその時その場の言葉を書く。 俳句を吟ずるようにひねりすぎるのはだめだ。 文通的リズム感から外れてしまうと、文通は続かない。 この方のお手紙の中に、「暇を持て餘し用も無い手紙を差し出しご迷惑をかけ嫌われるかもしれません」といったことが書かれていて、何だか昔の私を思い出すようだった。 相手を困らせたいわけではないのだが、熱量の投下先を欲し、出来ればその熱量と同量ほどの熱量が返ってきて欲しいのである。 コミュニケーションの手段や質は好みがある。 酒を飲んで酔いながら長時間をかけて話をする、カフェや散歩などの居心地背景を含めて話をする、毎夜電話で話す、美術や小説などを介在させて話す、煙草を吸いながら手短に頻度高く話す、電子メールで長文を交わす、文通する、一緒にただ楽器を演奏する、など。 どれもコミュニケーションであり皆複数のコミュニケーションを行うものだが、それに投下する熱量は様々で、また好みの形態というものもあるだろう。 自分が好むコミュニケーションの形態を、誰かが同じように好んでいるとしたら、それはとても稀有で嬉しいことなのではないだろうか。 相対的にコミュニケーションの熱量の高い方は、いつだって何となく淋しさを感じているもののようにも思う。 そしてどこかでコミュニケーションについて良い意味で諦め、折り合いを付けているのではないだろうか。 そうしてまた自分好みのコミュニケーションを交わすとき、きっと有難き嬉しさを感じるのではないだろうか。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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