「忙しい」と口にすることをあまり良しとはしていない方である。
それは、「忙しい」という人は本質的に「忙しい」のかどうなのか疑わしい事例をたくさん見てきたからなのかもしれないし、私のような暮らしぶりは「忙しい」に値しないような気がしているからかもしれない。 どちらかというと後者の意味合いが大きく、私は自営業という形態における少しずつの優越と罪悪の意識をしっかりと解せぬまま持っているところに、「忙しい」をあまり口に出せない由来があるような気がする。 まあ「忙しい」と発することに客観性など必要ないのかもしれないし、どこまでいっても主観しかないこの世界において尚、なのだから、これは欺瞞の一種であろうと思う。 ところで、会社員である夫の自営業への理解が、自営業の私よりも深くて日々驚くばかりである。 自営業の辛さや楽さ、というのは、良し悪しや度合いなどはさておき、会社員のそれとは大きく異なる。 私は、その自営業の辛さや楽さを会社員のそれと比べて、広範的総合的に楽さの方が勝っていると感じているので自営業をやっている。 おそらく、夫は、辛さや楽さという指標ではなく、もっと広範的総合的「良さ」において少なくとも今は会社員を選択している、という感じなのではないだろうか。 ちなみに私が数年前会社員を辞めたとき、自営業と会社員のそれをきちんと比較して納得してから会社員を辞めたのではない。 そのとき私は到底会社というものにいられるような心境ではなく、勢いづいて辞めたにすぎない。 会社が悪かったわけでは全くなく、自分の事情において、である。 けれど、結果的にその私の心境における選択は今となって考えてみても、今を含めたこれまでのところ一度も間違っていたと感じたことはない。 これは、かつてひとり暮らしで一度も寂しいと思ったことが無いということと似ている。 さて、私は、何か自分の創作、制作に時間や労力を費やすことを、”余分な贅沢”のように思っている節がある。 夫はこれを、れっきとした仕事、と認めてくれるのである。 私が好きで出向くアートの展示会や、友人に招かれた展覧会に行くことも、夫にとっては仕事になるらしい。 「行って楽しんできなよ」というのもあるが、「それは仕事だから是非行かないと!」という感じで押し出してくれる。 無論、私の創作物や展覧会に出向くことは少なくともすぐにはお金になることでも何でもない。 当人にとっては、何になるか、何にもならないかもしれない、そんな不安を抱えながらそれでもやっているそのことは、少しだけ後ろめたい気持ちがないわけではない。 一緒に暮らす人がふたりもいる今、私だけ”余分な贅沢”をしていて良いものだろうか、と傍若無人に見えているかもしれない私でさえ思うものである。 普通なら毎日何時間もお字書きに費やすなて、いつまで遊んでいるのと怒られるようなことのように思っていた。 ”余分な贅沢”をしている私が「忙しい」などど口にしてはいけない、そんな風に思っていた。 もちろん、私の仕事は字を教えていたり依頼物を揮毫するためだけに直結することをやっているだけでは成り立たない。 日々のあれこれを全部含めて、自営業、自分営業、である。 だから、自己研鑽的な活動はすべて、仕事、と言ってもいいはずである。 お金をすぐさま生み出すか否かに関わらず。 ということは私自身が一番分かっていないといけないと思うのだが、何だか夫の方が理解が深いらしい。 先日、近くに旅行に行った際、私はいつものお字書きセットを忘れてしまったことを最寄り駅に着く前に思い出した。 それを言うと夫は、「戻る?待ってるから」とやや神妙な顔つきで即座に言った。 私が驚いている場合ではないのに、驚いてしまった。 まあでも、いつもの道具でない、コンビニで買ったような有り合わせの道具で書く新鮮さもあるので、このときはそのまま戻らずに出かけることを選択したが。 私の深層で、自営業やアーティストに対する一抹の蔑みが未だあるのかもしれない。 家事や育児についても、アンペイドワークに対する理解や経緯が足りないのは私の方なのかもしれない。 夫のこのような態度に、私は居住まいを正す気持ちがするばかりである。 話は変わるが、「大津絵」を東京ステーションギャラリーに観に行った。 ここにも私の目指したいものがあるなあと思った。 とても良かったので記録しておく。 11月8日まで。ネット予約制。 是非、もう一度行きたい。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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