毎朝、保育園へはいつも遠回りして向かう。
一日一万歩、私が歩きたいからである。 なるべく日々、少しでも昨日と違う道を通ることにもしている。 息子に新しい景色を見せてあげたい、という理由はほとんどなくて、私が昨日と同じではつまらないと思っているからである。 息子は保育園への最短ルートさえもまだ明確には道を覚えていないだろうから、どこを通ってもそれなりに新鮮なのかもしれない。 今は随分と規則的な毎日を送っている私だが、「不規則が規則」である毎日に身を置くと、結構広範囲の汎用性をもって状況対応力がつくのではないかと考えている。 至極当たり前のことだが、昨日と同じ今日は訪れない。 昨日の私は今日の私ではない。 昨日の机も今日の机ではない。 当然ながら自ずと毎日違うことが起きるのだが、その毎日の中に意図的な違和を加えることによってその場その場で対応を重ねていく。 どの物事も、かっちりきっちりとはできないかもしれないけれど、どのような状況にも強いストレスに押しつぶされることなく生きていたいものだ。 まあそれでも私の起こしている違和なんて、本当に微々たるちっぽけなものである。 紙の上で言えば、いつもの筆を使って、いつもの大きさの紙で書いているわけである。 それは、その中にも無限の宇宙があるからであって、たとえ一文字のみ、同じ大きさの紙に書くとしても無数の作品が出来上がってしまう。 また、無数の作品はできるとしても、「良いな」と思えるものができるまで時間がかかる。 だからなかなか、大きな変更をするまでにたどり着かないのである。 時々、旅行に行ったりなどしていつもの道具がない場所では、やむを得えない状況を味方につけて新しいものができやすく、それは楽しいものである。 寝る、食べる、運動する、のような超基礎的な日常の習慣も、私自身はそれほど規則的であることを望んではいないのだが、こと息子のことになると、やはり規則的な生活をさせるべきではないか、と考える自分もいる。 息子のための成長と健康を願う親の身としては、ある程度規則的な日々がやはり正しいのではないかと思っている。 もちろん、息子はまだまだ自分で身の回りの世話ができないわけなので、家族を含めた周りの人間との社会生活に合わせてもらう必要もある。 早く寝てもらうことは息子の健康に良さそうということだけでなく、私たち親の、個人時間の確保という意味も大きいのである。 保育園への送り道、ある場所を通るとたくさんの母子や父子とすれ違う。 案外保育園の送りは父子の姿も多いものである。 すれ違うだけで話しかけたりしないけれど、多分お互いにまたあの子がいたねえ、というくらいには認識しているだろう。 そう思っていたら、ある母子の母に、「あ、ねえ、前に・・・」と話しかけられた。 幾度か同じ場所ですれ違っていて、見たことがあるなとはお互いに思っていた。 児童館での身体測定や保健センターでの離乳食講習会で顔を合わせていたのだ。 「前にあそことあそこで会いましたよね!大きくなりましたね。うちの保育園はそこ。会えてうれしい。」そのお母さんは言った。 おそらく南米系の方なのだと思うが、やはりこの陽気な感じは日本離れしている。 私はそういう意味においては社交的でも明るくもないのだが、やっぱりコミュニケーションというのは嬉しいものである。 お互いに送りの時間が迫っているので、会話はそれだけだったけれど、またどこかで会うだろう。 息子も目がまんまるでまつげが長いけれど、その子はやはり外人さんらしくもっともっと目がくっきりしている。 あの坊やも大きくなったものだ。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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