夏の句会。
このところ2番手続きだった気がするけれど、今回は特選が獲れた。 指をパチンと鳴らしたい気分であった。 下記、今作のうち、上の三句を投句した。 一番上のバナナの句が今回の特選に選ばれた。 旱梅雨バナナの黒点数へけり (ひでりづゆ) 曇天を好天と言ふ夏のあり 波しぶく麦酒にライム落としけり (ばくしゅ) 店長は夏の語調のいらっしゃい 朝曇り珈琲落つる三角錐 透明人間になれるサングラス 太陽を頬張っている温き枇杷 虹立ちて現し身くぐり彼逝きぬ 別に解説しなくても良いのだけれど、いくつか解説というかネタばらししてみようと思う。 <旱梅雨バナナの黒点数へけり> (ひでりづゆ) これは、最近時間がないときの食べるものとしてバナナを買ったら思いの外食べる機会がなくてあれよあれよと黒ずんで匂い立っているバナナを目の当たりにして作った句だ。 俳句を作ろう、という気になってから、こういった日常の1シーンを拾い上げるのはよくすることである。 しかし、最初のその光景からはかけ離れた句ができることも多い。 現実のシーンはトリガーでしかない。 以前NHKの俳句番組を見ていたとき、連想される言葉をとにかく書き出してみる、という手法をやっていて、私もよくそれを採用している。 バナナ、黄色、黄緑、熟れる、黒ずむ、黒い点、太陽、明るい、皮、持ちやすい、栄養がある、美味しい、甘い、腐る、匂い・・・ そのそれぞれの言葉からまた派生していくこともある。 最初は皮に着目していて、食べ終わった後のくたんとした感じと夏の無気力を合わせようと思って試行錯誤していたが上手くいかなかった。 「熟れる」の古語である「熟るる」という言葉の語感が気に入って、そちら方向に傾いた時間帯もあった。 匂いについても触れたかったが、黒点を入れれば匂うだろうと省く。 あとは、季語は何にしようかなと、遠からずなイメージの季語を季語辞典から拾う。 「旱」という感じは「干す」という漢字が入っていて、音的にも印象が強く、太陽のカッと強い光とバナナの陽気さと熟れていく黒点と、言葉のイメージのマッチングを図っていった。 そこに、「数へけり」という人間の動きが入ると、その行動の無意味さによって奇妙感が演出される。 黒点見つめたり、とも悩んだが、数えた方が動きが面白い、とこの句が完成した。 ある季節感を、少し種類の異なる意外性ある言葉と合わせてイメージやニュアンスを醸し出すマッチングの妙が、俳句のひとつの大きな醍醐味であろうと思っている。 「灼岩に想像の目玉焼きを焼け」「エチレンと嘘で朽葉が匂ひけり」という過去作もだいたいこんな方法で作ったような気がする。 <曇天を好天と言ふ夏のあり> これは、「我が絆し横一列に祝箸」という過去作と私の中では同じカテゴリーに属している。 家族、絆(きずな)、という言葉はこの世の中で大きく幅を利かせていることであるけれど、それはセーフティーネットであると同時に、自分の枷にもなり得る。 絆という漢字は「きずな」とも読むし、「し」の送り仮名が付けば「ほだし」とも読む。 きずなである反面、ほだしでもあるわけだ。 私たちは「晴天」のことを「好天」と言うことがほとんどだと思うし、天気予報で「明日は良い天気になるでしょう」と言われたら「晴れる」と思うと思う。 しかし「良い天気」がどういう天気のことを言うのかは、本来的には個人や個人の気分によって異なるものだと思う。 外での作業をする夏の日が、ぴーかんに晴れて太陽がじりじりと照りつけるよりも、曇り空で気温が上がらず日焼けもしない方が「良い」と思うのではないだろうか。 また、梅雨時期であれば、毎日雨ばかりならば曇天でも「良い」と思えるということもあるだろう。 つまり、「良い」「好い」というのは、決まっていることではなく、その瞬間瞬間で個人が判断することである。 多くの人にとって「良い」ということを「良い」と決まりごとのように言うのは違和感がある。 ちなみに私が、絆が嫌いとか、晴天が嫌い、とか言っているわけでは全然ないのでそのあたりだけはご留意いただきたい。 「ありふれた日常に不吉な感じを匂わせるのが上手い」と言ってくれた人がいたけれど、確かに私はそのような嫌いがあると思う。 「日常の染み」みたいなものを見つめたくて、描きたいのかもしれない、またそれを染みであると思いたいのかもしれない。 遠回しに常識に侵食して、物事をフラットに考えましょう共に、というようなことは自分自身にも他人にも問いたいことである。 <透明人間になれるサングラス> これは投句はしなかった。 おそらく意味が分からないだろうと思ったからだ。 以前投句した「三百五十日分の梅の色」と同じような構成になっていて、自由律で作っているように見えるが、実は五七五の合計音数は守っている。 「透明人間」というような言葉が使いたい場合、既に8字なので、真ん中で字余りにするか句またぎにするかしかない。 季節に関係ない長い言葉を入れると、どうしても説明不足になってしまって破綻してしまうことが多い。 私は眼鏡をしていると思考が鈍く世界が遠くなったように感じるのだけれど、サングラスだとそれが輪をかけてそうなる。 サングラスは他人がしていても、目が確認できないので、こちらのことが分かっていないのではないだろうかと感じることもある。 サングラスをすると、私だけ透明人間になって世界を見て楽しんでいる、という単純な句だ。 さらに服が透けて見えるサングラスで、夏の海辺のビキニ女子たちを見たら鼻血が出てしまったというような漫画チックなところまで想像してもらえたら僥倖である。 が、皆の認識では、そもそも透明人間とサングラス自体が遠すぎる言葉だろうとは思っていたので出さなかった。 久しぶりに長々と解説してしまった。 これまでの句を集めて、大きな句集作品を出品した、「同人書作展」が六本木新国立美術館で9日まで開催中です。 ご興味とお時間がある方は、ぜひ会場まで足を運んでご高覧くださいませ。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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