もうすぐいもうとの子どもが産まれる。
三度目、おそらく最後の出産なので無痛分娩にすることを決めたらしい。 無痛分娩について、まったく、つゆも、異論はないけれど、通常分娩の倍以上も費用がかかるらしい。 何でも良い、母子ともに無事であれば。 自分も出産を経験して本当に、そう思う。 死ぬほどたくさん食べたとか、死ぬほど急いだとか、死ぬほど泣いたとか、文字通り死ぬほど何かをすることは、本当にはほとんどないだろう。 しかし出産は皆それぞれに”死ぬほど”の体験をするのは、冗談や誇張や過言ではないと思う。 ”死ぬほど”と思わなかった人もいるだろうけれど。 実際には、妊産婦の死亡は、10万人に対し3.1人ほどらしい。 これは世界を見てもかなり低水準と言える。 無論、10万人に3人ものお母さんが亡くなっているというのはいたたまれないが、出産で死亡することは実際にはかなり起こりづらいと言って良いだろう。 だからと言って、安全で安心、というものでは全然ないと思う。 多くの危険を医療技術によってなんとかかんとかカバーしているというのが実際だ。 現に、私が産まれた1980年代には、妊産婦は10万人に対し18人弱、1900年代を見ると約400人くらいが亡くなっていたようだ。 それこそ縄文時代には、女性の死亡率は10~20代が最も高いというデータもあるらしく、それは出産に関した死亡と考えるのが妥当であろうと言われているらしい。 まあそもそも寿命が20~30歳とかそのくらいだったらしいが。 それほどに、人間の出産というのは冗談でなく「命がけ」なのだと思う。 私はこのことについて、だから出産した女性を敬えと言いたいのでは全くなく、何だか言い知れない怒りにも似た、未だ処理しきれない感情を抱えている。 私は息子を帝王切開で出産したので、もし医療技術が発達していなかった時代だったとしたら、私も息子も悶え苦しみながら死んでいたのかもしれない。 私たちは偶然にも整った医療を受けられる現代に生きているので、私も息子も事なきを得たので良いではないか、とも思うけれど、それですっきり片付けられない何かが私の真ん中の奥底でずっと燻っている。 出産は感動的で祝祭的に思われがちだが、私は自分の出産体験がそういったものではなかったことについて、なかなか向き合えずにいる。 かと言って、誰かの出産が感動的で祝祭的であることに問題があるわけではない。 というか、できればそうあってほしいものである。 身近な人の出産は久しぶりだ。 出産祝いでなくて、お姉さんになる二人の姪にプレゼントを買った。 お姉さん記念のプレゼントだ。 きょうだいが産まれると、親の愛情はどうしても分散されがちになるので、その慰めに。 つるんと、すぽんと、産まれてきてほしい。 がんばれ。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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