お字書き道TALKSの動画をやっていて、色々と考えを整理させてもらっているのは私だよなあと思う。
田中氏とは、私が妊娠するまで、酒飲み話としてそういう話を沢山してきたのだが、彼はいつも私の考えていることの1歩も2歩も先をいっているように思う。 こう書くと何かしらの誤解を産みそうな気もするが、私は彼から多大な影響を受けていると言わざるを得ない。 4話にわたる長大な「レイアウト編」を終えて、再度自分の書に取り掛かるとき、「あぁ、漢字(だけ)を書いてみよう」と思い立った。 私はこの何年か、自分の言葉を書く、ということに主眼を置いて創作活動をしてきた。 99パーセントくらいの書道家は、自分の言葉を書かず、他人の言葉を借りて書く。 書道を始めた頃から、私はそのことに疑問を感じていた。 もちろん、偉人の名言や詩人の詩は書くに値する、書なんかにしなくともその言葉のみで独立する価値があるわけだから、書きたくなるのは十二分に分かる。 過去に私も、著作権法違反かもしれないけれど、ブルーハーツの歌詞などとことん書きまくっていたことがある。 しかしながら、せっかく言葉を扱うわけなので、自分の紡いだ言葉を書くべきなのではないか。 他人の言葉を借りて書くと、著作権法違反の可能性に加えて、その言葉の発話者との合作、共作ということになってしまわないか。 そして、音楽の世界ではシンガーソングライターが沢山いるというのに、なぜ書の世界ではそれがほとんどいないのか。 そう思ってここ数年は、一般的な四字熟語などを除いてほとんど自分で紡いだ言葉を書いてきた。 当然、日本語で。 なので、漢字と平仮名あるいは片仮名交じりの文章を。 それはそれで楽しかった。 ある程度自分の型みたいなものが見つけられたはとても幸福なことだったし、2020年にWeb個展「狼煙展」をやったときには思う以上に売れた。 漢詩などの漢字の連なりを封印していたことも忘れるほどだったのだが、数年間日本語文をひたすらに書いてきて、つい先日「あぁ、漢字を書こう」と思ったことには改めて書道たるものの面白みにおいての発見があった。 書道の世界では、大きく分けて、 ・漢詩(漢文) を書く部門 ・日本語文 (近代詩、漢字かな交じり文、調和体などと言う) を書く部門 ・古典かな を書く部門 ・大字(大きな文字1-3字ほど) を書く部門 ・篆刻部門 これらの審査部門がある。 漢詩(漢文)と日本語文は、審査を分けるほど制作に違いがある。 というのも、漢詩(漢文)を書く書道というのは2000年ほどの歴史があるが、近代的な日本語文を書く書道というのは高々100数十年程しかない。 後者において、乱立する書道団体が小規模にあれこれ言っているに過ぎず、1000年先の後世に受け継がれるような“型”を未だ誰も発見出来ていないと言っても良いくらいだ。 それに、わざわざ「調和体」なんて言い方があるほど、漢字と平仮名を作品上で滞りなく調和させるのは案外難しいものである。 中国語は日本人にとって外国語であるにも関わらず、日本の全書道人たちは、おそらく日本語文よりも漢詩(漢文)を極めている人の方が多いように思う。 彼らが中国語の意味をきちんと理解して書いているかと言えば、ほとんどの場合がそうではないように思う。 ではなぜ多くの日本の書道人たちは、言葉として流暢に扱えないどころか、意味もあやふやな漢詩(漢文)に執心するのか。 それは、漢字を書くことそのものがひとつの“書”、なのではないか。 書道人の中には、ただ漢字を書きたい、という根源的欲求があるのではないか。 漢字は意味を持つ記号だからと言って、その意味を現代の“書”に入れる必要は無い。 文字の意味が最も重要なのであれば、現代であれば活字で十分なはずだ。 もちろん、言葉×書 として表現することでその言葉の意味が活字よりもより強く伝わるなどのことはあれど。 漢字ではなく、ひらがな、カタカナのみを書きたい欲求があるかと考えてみると、少なくとも私においてそれはない。 中学生のころ、ノートにひたすら書いていたのも確かに漢字ばかりだった。 ひらがなやカタカナは、そもそもの数が少なく、画数も少ないので書くには余りにも物足りないのである。 この度、「あぁ、漢字を書こう」と思ったのは、とても自然な回帰だったのかもしれない。 そんなこんなで、漢詩を書いてみたらやっぱりとても楽しかった。 それに、ここ数年間自分なりの日本語文の型を創ったことが活きて、以前書いていた漢詩とは全然違う表情のものが書けた。 ほう、楽しい。 そして、やはり漢詩を意味もわからず書くのは作者に失礼だと感じ、適当に思いついた漢字を横書きで紙にぎっしり書いてみた。 これは途中で辛くなったが、Instagramに投稿したら今までで1番反響が大きかった。 書において重んじられる連なりや流れや間という概念と言葉の意味を否定しても、それは書作品以外の何物でもないように思えた。 続いて、自作句の音を適当な万葉仮名風に漢字で充てて、漢字文を作って書いた。 漢字だけだからできる書の世界というものがあるのだなぁと今更ながらにちょっとした感動を覚えた次第である。 日本人としての“お字書き”とは、こんなものもありなのではないかと。 物理的な距離を移動しなくても違った景色が見られる、それが、こういった芸事をやっているひとつの醍醐味なのではないかと思う。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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