私は人と話しているときに、というか何か困ったり難しい話をしているときに、合谷を押したり、髪の毛を弄んだり、その辺にあるものを繰り返し手でいじったりする癖がある。
薄々知ってはいたけれど、それを人から指摘されてなんだかちょっと引っかかっている。 おそらく心理学的にいうところのメンタルブロックのようなことが無意識に働いているのだと思う。 自分が何を考えていて、何を演出しているのか、私はそんなことに単純に興味がある。 しかし、対人となったときに深層心理が行動として出てしまうのだろう。 踏み込まれたい、くせに、踏み込んでもらっては困る、そんなややこしさなのだと思う。 そのことは、何だか情けなくて、泣きたくなるような気持ちになる。 世間話とかが苦手なタイプには見えないだろうし、事実おそらくそれはない。 どちらかというとそれ自体は得意なのかもしれない。 「自分は真性の変態に憧れがあるけれど、後天的な変態にもなりきれない者と認識しています」とある人が言っていた。 その人のことを私はよく知らないけれど、なるほど、と思った。 それは、私が自分自身に対してまるでそう思うからである。 ここで言う「変態」とは何か、ということはちょっと置いておいて、私が好きな芸術作品というのは、音楽にしても書にしても言葉にしても、「真性の変態に憧れを抱きつつ、それは自分が違う気がするから後天的な変態になろうとして頑張っていたら真性の変態が漏れ出てしまった」という感じがする。 もちろん、受け手側の好みというものがあってこそだけれど、そんな姿というのはたまらなく愛おしい。 それとは別に、各ジャンルにおける様式美への挑戦、というような良さもとても好きだったりするけれど。 あと、「ロックはガキンチョ騙すものなんだよ」と言っていたヒロトの言葉が今はよく分かるような気がしている。 日々のバランスとは大事なもので、当然ながら常にいろんなものに対して自分を推し量りながらやっている。 すべてをいつ何時も開放するなんてことは、この世の誰もができないと思う。 しかしながら、ほんの一瞬であってもタガが外れて”わたし”に出会えたら、そんなときに生きていて良かった、と思うのかもしれない。 とまあこれは言い方次第で小難しい話にもなるし、極めて日常的なくだらないことでもある。 くだらない美しい何かを、きっととっても愛してしまっているのだろうと思う。 軽々しくも、重々しくも、そう思う。 寒いので、先日整理していて見つけたタートルネックを久しぶりに着た。 過去にはよく着ていたけれど、なんだか首が苦しいし、首付近の布が邪魔である。 まさか首太りしたということがある気はしないのだけれど。 ファッションは嫌いではないし服はそれなりに好きだし、もちろん人には良く思われたいというふうにはある程度は思っているけれど、正直なところよく分からないし、燃えるような興味はない。 度の入っていない眼鏡や、日よけや防寒でない帽子、街中のサングラス、肩掛けのカーディガン、飾りのカフス、などに私は立ち向かうほどのファッションへの情熱は持っていない。 いや、肩掛けのカーディガンはやってみたら思いのほか温かかったので、家の中限定ではやる。 現に下着以外何日か同じ服を着ていることもよくあるし、化粧も年々薄くなっていく。 顔がぼやけるから、という理由でアイラインとアイブロウは書くけれど、アイシャドウもグロスもしなくなった。 まつ毛パーマはしたいけれど、もう1年以上やっていない。 コンシーラーもふとしたときに買ったけれど、結局一度も使っていない。 自己演出というのはどちらかというと良いもののように思っているので、したいときにアイシャドウできらきらくらいさせれば良いのだけれど、どこに向けての何なのかということを問ううちに何だか気恥ずかしくなってしまうのだ。 結局自意識は全部自意識だし、跳ね返ってくるそれに自分で理由づけができないと、それをすることが難しくなってしまうというわけだ。 まあ元々面倒で省いていったものなので、日常としては問題はないけれども。 そしてどれもこれも自己演出の域を出ないのではないか、ということにもなってしまうけれど。 さてはて、月がきれいである、とでも言わないと終われなくなってきた。 それもこれも、どうでもいいような、よくないような、いいような、よくないような。 月はたぶん出ていない。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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