早起きして9時45分からレッスンを執り行う。
いつも10時半なのだけれど、今日は私のこの後のレッスン予定の都合で9時45分から。 私の始業時刻はたいてい11時としているけれど、毎週月曜日の朝に来るこの方はパティシエで、ほとんど週に一度しか休みがないらしく、そのお休みを寝て過ごすことがもったいないのでということで午前から習い事を入れて休日を有意義に使うのだそうだ。 この方は元々左利きで、最初はケーキにチョコペンで書くメッセージが上手く書けないといって私のもとにやってきた。 どうせ左手で書いても壊滅的な字しか書けないのでこの際右手でやります、と言うので、どうせなら筆ペン使って右手で基礎的なところから学んでいきましょうと、もちろんチョコペンではなく筆ペンのレッスンを行っている。 稀だけれど時々、左利きで字も左で書いていた人が、右でやるというケースがある。 確かに字は右手で書くように作られていて、特に筆文字はきちんとしたことをやるには右手でないと困難だ。 けれども何十年か左手で文字を書いてきたのに、今から右手でやるとは何とも字に対する情熱が凄い。 そして彼らは一様に努力家で、ある程度右手で書けるようになっていくものだから頭が下がる。 一応言っておくが、左利きの人が左利きのまま字を習っても上達しないというわけではない。 ただしそれは筆ではなくてボールペンであれば、ということにはなる。 そのパティシエの子が何か月か経ってだいぶ上達してきたとき、持ち場の変更がありチョコペンで字を書くことがなくなってしまったらしく、彼女は髪を切ってやって来た。 持ち場変更による作業内容の変化によって、髪を切るほどの喪失感を抱いたらしい。 左利きなのに右利きで習うという彼女の決意は私が思うよりもずっと大きかったようだ。 でもせっかくここまでやって来たからと、今も筆ペンで字の練習をしている。 細かい線のポイントを何度も繰り返し練習して、「できた!」「あぁこうか!」と、その体感が好きなのは職人気質だなと思う。 できるようになる、ということは誰にとっても、大人になっても、嬉しいものである。 そう言えば昨日も、ある生徒さんの飛躍の回を見た。 前回書いてきたものよりも何だか格段に良くなっていて、何が何というわけではなくて流れと線質のステージが変わったことを確実に見てとれたのだ。 「いやー、言うことないです」と私はしばし感動させてもらった。 ご本人曰く、「今まで忠実に写すようにということだけを考えていましたが、流れに乗ってスピードを出してみたら上手くいきました」とのこと。 自覚もあったようで、私としてはそれが嬉しいなと思う。 芸事何でもそうだと思うけれど、みんないつだってどこかの階段の途中にいる。 階段の平坦なところの長さは色々あって、やればやるほどおそらく平坦な距離が伸びていくのではないかと思う。 平坦な部分にいるとき、上達が感じられなくて諦めてしまったり飽きてしまったりする人もいる。 階段のてっぺんがどうなっているのかは知らないし、てっぺんがあるとさえ思えなくて、何のために階段を上りたいのかもはや謎が立ち込めてくる。 字が上手くなることも歌が上手くなることもギターが上手くなることも、人生において本当に急を要したりすることではない。 だから別に私だっていつ辞めても良いのだけれども、上手くなったり、うまくいったりすることがあることを知っているものだから、その幸福度が止められないのである。 大切なことは自己評価だ、と私はよく言う。 何級、何段、という決められた階級の話ではない。 その幸福を一度知ることができれば、きっとちょっとは外界に対する優しさも持てるようになる気がする。 だからほんの少しでもその階段を上った体感をしてほしいと思ってレッスンを行う。 と、何だか、久しぶりにこんなことを書いてしまった。 こんなことを書くつもりではなかった。 歯医者に行って、プールに行った今日の日のことを書こうと思っていたのだ。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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