レッスンをしていると、「正しい字を教えてください」と言われることがたまにある。 多くの場合、「正しい字」=「きれいな字」と言っているのだと思う。 私としては、「人が見て共通認識としてきれいに見える字」というものはあるだろうけれど、「“正しい”字なんて誰も知らない」ということが回答である。 これはどんな大家の先生であっても回答できないはずだ。 無論、字は記号なので、間違い、ということは存在する。 しかし記号としての意味が、記録として自分に、あるいは他人に伝わればその記号的間違いも結果的に“問題のない正しさ”ということにもなる。 では、「人が見て共通認識としてきれいに見える字」を“正しい”字とする。 しかしこの“正しさ”だって微妙で、曖昧で、一般的に言われるところのセオリーを外れていても“正しそうな”字はたくさん存在するし、少なくとも誰かが判断する“良い”字になり得る。 書き順、筆順というのは、文科省が定めている手引き上の“正しさ”は存在する。 しかしその社会的ルールさえも、歴史上で変化することもあれば、楷書体と行書体で“正しく”書き順が異なることだってある。 という屁理屈ではないのだけれど屁理屈に聞こえそうなことばかりを言っていても仕方がないので、記号的に“正しい”字のバランスの取り方も当然やる。 しかし、字は一画でも終われなければ一字でも終われないので、全体の「空間バランス」や「流れ」、そして気負いない「線質」ということも非常に重要になる。 “正しい”字が存在しなくとも、“上手い”字とか“良い”字とか“きれいな”字いうものは存在すると思う。 それは、非常に複合的要素が組み上がってできている。 そして、どこにおける誰判断のことなのか、ということを加味するのであればもう字の話ではなくて哲学の領域まで行ってしまいそうだけれど。 一気に全部はできないので、少しずつある要素を他の要素と組み合わせながら場数を増やして練習していくしかない。 理解と運動は別のことなので、イメージ上の“良い”字になれるように運動を積んでいく。 それは例えばギターが上手くなったりすることととても近しい。 運動を伴う何かを体得しようと思ったとき、一つではなくて二つ以上の何かをやっている方が理解が腹落ちするのは格段に早いと思う。 という一連のことは、なかなか進まない私のギターにそっくりそのまま通じて跳ね返ってきている。 久しぶりにエレキギターをアンプに繋いでみる。 私は何度、トライアドで止まってトライアドから始めるのだろうか。 ベランダに出ると、木瓜の花が酷く巻き散っていた。 強風で散った感じではないので、おそらく鳥か何かの仕業だろう。 無残な様相だけれど、まだつぼみは残っている。 久々に定期便以外にも自分で花を買って、それが定期便の花とかぶってしまって部屋が花だらけである。 色に一目惚れして買った菊の花があまりにイキイキとしていて嘘っぽい感じすら醸している。 カスミソウが臭い。 白い花は、全般的に湿った艶めかしい匂いがしてあまり好きではない。 最近、私はどこかに迷い込んでしまっている感じがする。 あらゆる揺蕩う環境と揺蕩う自分自身の中で、揺蕩っているのはどうにも心許ないので、自分の中にある決め事のような拠り所を以てして癒されたりする。 癒されたい、というのは全くもって本当だけれど。 ある人がある人の本を読んで抜粋した“小さな神様”というものが、私の中に存在するのだろうと思う。 ”悔しい”という思いに目を向けてみる。 うむむ・・、と考えているうちに眠くなってしまう。 「亀田音楽専門学校」がたまらなく面白い。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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