ラナンキュラスはどれもみっちりで、細い体に頭を擡げている。
ぎゅうぎゅう閉じた花びらが、少しずつ空気を取り込んで大きくなって開いていく。 ある程度開ききったところで少しでも刺激を与えると、まるで喋っているうちに一瞬に眠りに落ちてしまうかのように、ばらばらっと花びらを落とす。 フリージアはラッパみたいで、水仙は素っ頓狂。 1年くらい前、このことは俳句にも詠んだ気がするけれど、自分でそれらに言葉を与えてしまうとイメージの固定化が少なからず起こる。 今見て再びそう思う一方で、フリージアは甘やかな毒を持っていそうで、水仙はマリオに出てくるパックンフラワーみたいだと思ったけれど、パックンフラワーを今調べてみるともっとかなり奇怪なものだった。 以前、イメージを我が物にする沈丁花、という人から見ると訳の分からない句を作ったことがある。 沈丁花、という言葉が春の季語であることを季語辞典で見つけたときに、「春」とも相俟って、松任谷由実の「春よ、来い」が頭の中でリンクした。 小学生の頃、「春よ、来い」をよくリコーダーで吹いていた。 その頃、私は詩の意味を考えることも言葉の意味を調べることもなかったけれど、「沈丁花」という字面と語感が何かしら新鮮な感じがして気になっていたのだろうと思う。 私の中の沈丁花のイメージは花そのものではなくあの曲なのであって、実際の沈丁花の花をおそらく見たことはないのではなかろうか。 時を経てすくい上げられた沈丁花は、言葉を充てる楽しさと、それによるイメージの支配力について思い馳せることとなってできた句だった。 例えば「春」という概念は広く遍く共通する感覚を持ち得ると思う。 植物が芽吹いてきたとか、太陽に力強さを感じたとか、風が不意に薫ったとか、そんなことはツンドラ地帯に住む人にもあるとてもとても広い世界的共通概念なのではないだろうか。 これらはまあ言葉として陳腐であったとしても、それをうまい具合に、「春」ではなくて「春感」のイメージを言葉で紡げたとしたらおそらく句会で得点が獲れるような良い俳句になると思う。 先日の句会の特選句である、我が絆し横一列に祝箸、というのも、もちろん私の中の思いもあるけれど、共通概念を目指したという側面もある。 実際の評にもあったけれど、「お正月って何かしらそういう感じありますよね」というところの共感を呼んだということだと思う。 「春」の概念よりはとてもとても狭い共通概念だけれども、範囲は絞られた方が逆に描きやすいということもある。 俳句というのはあまりにも短い五七五の中で、表層を描くにしても、深層を描くにしても、割に広範囲の共通認識を射抜くことが一つの格調に繋がっているように思っている。 もしくは、戦場写真のような瞬間の鮮やかさで撃ち取るものか。 イメージを我が物にする沈丁花、では、沈丁花が春の季語であることを読み手が知っていたとしても、何がなんだかわからない。 こんな裏側があることは、五七五の世界では描ききれないよなあと思うから句会用ではないと思って出してはいないけれど、実は個人的な思い出としては好きな句だったりする。 イメージに言葉や記号、例えば音や字や絵など、を与えることで誰かにそのイメージを伝えようとする。 本当に伝わったか、という確証は一生得られないけれど、伝わった気がする感じがしたり、受け取った感じがしたりするのは、そういうのは一つのもうとても素晴らしい感動体験であると思う。 創作側からすれば、「私をわかってください」というコミュニケーションのきっかけの発信とも言えるだろう。 仕立ての良い紺色のコートとか冬の青空に映えた浅草寺とかプールで臭う香水とかデニーズの苺パフェとか都庁の眺望レストランとか好ましい勝手な依頼とかフジロックのパエリアとか気負いのない大声とか個人的な会話とか。 なんかいいなあと思ったキーワードたちを留めておく。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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