毎日のお題を、どう書こうか、ということで悩むことはあまりない。
イメージはぱっと思いつきで、それを形にするまで私は結構長くかかるけれども。 毎日一緒じゃつまらないよなあ、ということは思うので、意図的に書体を変えてみたりする。 墨の色を変えてみたり、紙の色を変えてみたり、字の大きさを変えてみたり、線の質を変えてみたり。 例えば「一」という文字を一字だけ書くにしてももうやれることは無限なのだ。 その最初の思いつきの大方のイメージは、おそらく言葉の持つイメージに支配されていることが大きいだろうと思う。 しかしながら、文字はただ文字、であるし、そこに乗っけられた言葉のイメージは言葉にはできないし個々人が思うイメージだって異なるはずだ。 ただ所謂典型的なイメージにはしたくないというのが私の傾向ではある。 だから、最初の思いつきの、言うなれば私の勝手な気分的イメージに十分支配されながら、そのときに紙面が面白くなると良い、とただそのことだけが表れれば良いかなと思っている。 ところで、先日「心機一転」というお題があったわけだが、私は何となく、たまには篆書体でも書いてみるか、といった具合でそれを「篆書体」で書くことにした。 それが下の画像の一番目の作品で、「転一機心」と右から書いてある。 「篆書体」とは紀元前後の中国の秦の時代の頃にまとめられた書体で、現在でも印鑑やパスポートの表紙の文字としてよく見かけるものである。 歴史的なことは私はあまり詳しくないのだが、篆書体は一時秦の公式書体として用いられ、広く万人が使う文字として広まったが、直線曲線の組み合わせが煩雑で筆記に適しておらず、短い期間で廃れていった。 それに取って代わったのが「隷書体」という書体ではあるのだが、それでも完全に失われていってしまうことはなく、2000年後の現代でも我々の生活の中に根強く残っている。 おそらく、篆書体が単純に“美しさ”を持っていたからだろう。 篆書体でそれぞれの字をどうやって書けばよいのかは調べないと分からないので字典を引く。 今はスマートフォンのアプリで字典があって、分厚い字書を捲らなくて済むので大変に便利である。 本の辞書は探すのに時間がかかることと、指の皮膚の脂を持って行かれることが嫌である。 かつての書家がそれを自分なりに残したものが載っているので、篆書体にもいくつかの書き方がある。 まあでも凡そこんな感じの記号というところで統一されている。 漢字の起源は、多くはその形を模した象形文字から派生している。 「心」は心臓を象ったところからできているらしいが、古代の人々は人間の心臓を見ていたのだろうか。 それとも、食す動物の身体を開いたときに心臓を見たのだろうか。 それとも、どうやらここで鼓動を打っているやつが止まると人間は息絶えるらしい、という大切なものが身体の中央辺りにあることが分かってそれを想像したのだろうか。 そして、心臓から「こころ」という言葉が来ているのだと思うけれど、そのまさに生命活動の根源とも言える心臓が精神である「こころ」となっていったのだろうか。 私は浅はかな想像しかできないけれども、学者だって本当の本当のところは確証を得ないだろう。 しかしながら、「心」という記号は2000年もの強靭な時の流れにも耐えて残ってきたわけである。 それが星の数ほどもある漢字それぞれにあるわけで。 そしてこれからも少しの変化を受けつつもきっと受け継がれていくだろう。 漢字ってすごいものだ、と最近改めてよく思うのである。 ひらがなもそうだけれど、だからこそ書いていて気持ちが良いのだろうと思うし、それが”美”そのものなのだろうと思う。 言葉で言い尽くせない何かを、何とかして伝えたり残したりすることが芸術の役目のひとつなのではないかと思う。 なんて、そんなことを言うようになった自分について、とりあえずきちんと誇りを持ちたいと思う次第である。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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