なんとなく喉がいがいがしていたり、目がしぱしぱしたり鼻や顔が痒いのは、たぶん気のせいではない。
あいつが舞っているのだ。 そんなことは露も忘れていたけれど、体はちゃんと反応する。 目がやられてコンタクトが入らないというような話を確か1年ほど前に生徒さんとしていて、1年も通っていてくれることに少しハッとする。 長い方だと私が講師業を始めたそのときから続けてくれている人もいて、もう2年近くにもなる。 LTV、なんて言葉が浮かんで、確かにそういう側面は大切だけれども、商品が広義に私ということを考えるとやはり嬉しいものである。 最近そんなことを仕事にしているという話をその辺で知り合った人にすると、所謂パフォーマンス書道はやらないのか、ということをよく言われる。 私は実際にはあまり見たことがないけれど、案外方々でパフォーマンス書道は行われているようだ。 私が大勢の前に出るのがとても苦手、ということを除いても、これについては今のところ全然そそられない。 パフォーマンス書道にはパフォーマンス書道のやり方があるだろうし、それをする練習が普段の書の練習以外に別途必要だ。 書以外についてのパフォーマンスを練習をするほど、書におけるパフォーマンス自体には興味がない。 私にとって書は、できあがった紙面の良さ、がすべてだと思っているので、そこに私という生身の人間のフォルムも見た目の醸す風合いも必要ない。 どんなへんてこな格好で書いていても、現に這うように書いていたり胡座をかいて書いていたりする、正座などは滅多にしない、できあがりが良いのであれば良いのだと思う。 ただ一点、時間軸に乗った“今”という表現はできあがったものでは真空パックしようとしてもどうしても薄れる。 これにはとても興味がある。 かと言ってパフォーマンス書道は今のところしない気がするけれど、とか言ってやったらハマるのかも知れないとも思う。 いやしかし、過去にあるロックバンドのプロモーションビデオに出演させていただいたときに手が震えて2時間撮影を止めた自分のことを情けなく思い出すと単純にかなり向いていないと思う。 まあそういうのは慣れというのも大いにあるだろうけれど。 いもうとから、引っ越しを検討しているがどのようにしたら良いと思う?と相談を受ける。 子どもがふたり、マンションが手狭になった、地元に帰ることも検討したいけれど云々、という内容。 あまりに事柄が大きすぎて強いアドバイスはしかねたけれど、結局は大人が最も良い風に暮らせることが重要なのでは、と答えておく。 いもうとの家庭は、無論子どもが経済的に家庭を支援できないどころか、住環境やお友達や学校がどうこうという明確な意志を発する年齢でもない。 例えば子どものために何かを犠牲にして、親が何かをとても我慢しながら暮らしているのは結果子どものためにならない、親の鬱憤が子どもに与える影響の方が断然良くない、というのが私の意見である。 大人が嬉しくしてくれていたら子どもはどうれあれ嬉しい、と思うのだけれどそれは一般的ではないだろうか。 子どもは結局どんな環境であっても育つし、一方で思い通りになど育たない、と思っている。 親になったことはないけれども、子どもだったことはある。 案外子どもの面倒が必要であるコアな時間帯に忙しくしている私は、なかなか姪たちに会いに行けないので、おばさんとしては、是非都内にしよう!と提案してみるものの、高いから無理、と一蹴された。 私はいもうとのことがなんだかんだ結構好きなので、近くにいてくれたらそれは嬉しい。 ただ、子どものいる家庭にとって助っ人が重要であることは分かる。 しかし今の私には姪たちの保育園のお迎えやらなんやらにはほとんど行けなさそうな気がするので、私のことは期待しないでと言っておく。 なにやらとても不思議な場所に出かけた。 上手く飛べたら良かったけれど、疲労していたからか好みが違ったからなのか、上手く飛べなかった。 サービスやエンターテインメントと分かっていてもできないというか、したくないことってあるのだなと思う。 駅の自動販売機で缶入りの蜆のみそ汁を買う。 みそ汁というよりかは、具がゼロで缶入りであることも手伝って、温味噌ジュースとでも言いたいようなものだった。 別に全然美味しくなかったけど、温かさは美味しかった。 自転車で坂道を下ると、おでこが凍りそうだった。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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