何かしらの出来事が当然ながら毎日あって日々がごろごろと無限に回転していっている。
スパイスだったはずのものは身体に取り込まれ馴染んでいく。 ごろごろごろごろ、毎日は過ぎ去っていく。 この当然の流れに意味を見出そうなんてするものだから、振り返って情けなく思ったりする。 視点が"いま"にフォーカスできない、とひとり勝手に悩ましく思ったりもする。 それは日々の中にある"締め切り"のせいというのも大きい。 サウナはそれを優しく慰めてくれる役割もある。 私がサウナにハマった要因の小さなひとつかも知れない。 主にはやはり"ととのう"ためだけれど。 酷暑の中では私は鋭さを持って思考を巡らせることができないし、水風呂に入ってととのってしまえば脳は溶け気味なのでこれまたぼんやりとした思考しかできない。 ただ、ととのった状態は、ぽわんぽわんとぼんやりながらもクリアな言葉が見つかったりもするのが不思議だ。 しかもネガティブな方向ではなく、諦めではない受け入れ態勢の言葉が浮かんでくることが多い。 さすがにととのっているだけある。 私はそういった言葉をスマートフォンのメモ帳などに記録しておく習慣があるが、悔しいかな、ととのいの最中は夢見心地だから銭湯を出てスマートフォンを手にする頃にはほとんど忘れてしまうのである。 なんだか良いこと考えていたなあ、という雲のような塊とともに帰路を行く。 それは悪くない。 何でもととのっているせいだけれど。 風呂やサウナにスマートフォンを持ち込み可能になれば良い、というはずもない。 スマートフォンは本当に便利なものだけれど、己のみで耐え忍んで考えることを奪うものでもあるだろう。 ならばスマートフォンを手元に置かない時間を作れば良いのだけれど、あの道具はあまりにバラエティに富んだ楽しさがありすぎるものだから手放すのは辛い。 強制的に、風呂やサウナは本当に我が身ひとつになれる。 何かを検索したり誰かと話したりすることなく、我が身ひとつで自分の身体を感じたり、考え事をしたりすることができる。 そう言えば以前は、強制的にひとりになれる場所としてまつげパーマをしに行っていた節があるのかもしれない。 いや、まつげにパーマをかけに行っていたのだけれど、強制的に目を閉じなければならず、ほぼ喋らない施術師さんだったので1時間ほどの間にふわりと言葉を浮かべていた気がする。 まあ寝てしまっていることの方が多かったけれど。 3回目、自宅から最寄りの銭湯に行った。 男湯と女湯が日替わりということで、初めて違う方に当たった。 随分と印象が違って、サウナ室も広いし露天風呂からはかろうじて空も臨める。 新しい場所にも行きたいけれど、同じ場所に何度も行くことは大切なことである。 一回では分かりかねることも余裕が出て分かってくるし、だんだんと平均値も見えてくる。 そこに寄り添ったり、向かって行ったりもできるようになる。 昼サウナは夜サウナよりもサウナ上がりが気持ちが良いことが多いけれど、女湯は昼サウナの方が混んでいる。 サウナ室では世間話など聞きたくないので、やはりほぼ貸切状態の夜サウナも捨てがたい。 最近あまりたんぱく質というか食事そのものをきちんと摂っていなくて、とても肉を欲した。 近所の八百屋さんにお惣菜も置いていて、タンドリーチキンがあったのでそれを買って一気に食べたら、肉が身体に満ちた気がして良い気分だった。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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