さて、息子が少し久しぶりに風邪をひいた。
こうなると、1か月、あるいは2か月、あるいは3か月に一度ほど、1週間ほど身動きが取れなくなる。 夫と連携して乗り切るしかない。 げほげほずるずる、息子は辛そうである。 息子の咳シャワーを存分に浴びているわけだが、こんなに浴びて大丈夫なのだろうか。 今のところは何もないけれども。 それでも、今年1月に41度に近い熱が出たことを思うとこちらの気持ちは幾分ましである。 しかしながら同じ保育園の子で、今回流行った風邪により気管支炎で入院してしまった子もいるのは心配である。 早く良くなって欲しい。 ところで、私は現在37歳なのだが、最近ようやく「子どもの立場としての自分」が抜けてきた感じがある。 というのも、これまで何を見るにつけても私は「子どもの立場としての自分」として物事を見てきたように思う。 30代後半にして変かもしれないが、「自分はまだ子どもだから」という何かしらの免罪符を手に行動してきたところがあるのかもしれない。 これは自分が子どもを産んで親になったからというのも少しはあるのかもしれないが、年齢的な必然というか、極めて自然的にそうなってきたように感じる。 何かきっかけがあったのではなく、本当にごく自然的に自分が子どもである感覚が抜けてきた気がするのである。 私たち世代の祖父母は、90代が多く、多くは他界している世代である。 親も60代、70代、私の家のケースも然り、すでに片親が死んでしまっている場合も特に珍しいことではない。 現代日本人の寿命まで生きるとしても、子どものときに元気だった祖父母は当然のように年老いてもういない。 確実にひと世代が押し出されて、自分の親世代がじじばばとなり、自分たちが親世代となった。 子があるなしに関わらず、一般的に社会において一番の働き手といってもよい年齢であるとも言えるだろう。 そしてまた自分たちの子どもは大きくなり、今度は自分たちがじじばばになる。 いつの時代もそうして脈々と続くものだけ続いてきた。 何を当然のことを言っているか、と思うわけなのだが、そのことを身をもってわかるようになったのが最近なのだろうと思う。 息子はもうすぐ3歳になるわけで、私のお腹に彼を宿してから4年ほどが経とうとしているわけだ。 4年前私は33歳だった、そして今は37歳だ。 その当たり前の事実が身をもって感じられるようになったのだ。 あと20年経つと私は57歳だけれど、けいこは88歳くらいになるだろう。 たとえ88歳で健康だとしても、身軽に動ける今とはわけが違うだろうし、それこそ死を身近に感じているだろうと思う。 今私が言っていることすべてが、至極当然のことであることは分かっている。 しかしながら、いつだって実感を伴わないことには真に理解できたとは言えない。 何か不測の事態が起きないにしても、時は確実に進んでいる。 毎度息子が押してくれる電子レンジのカウントダウンを見つめながら、この数えた10秒は確実に過ぎ去っていて、その分だけ年を取って、当然ながらそれを取り戻すことはできない、と考えるようになった。 真っ当に行って、このまま確実に死ぬのだなと、切に思うようになった。 平均寿命などと言わず、父親のように、青天の霹靂でいつ死ぬとも知れない。 だからなんだ、というわけではないのだが、子どもではないひとりの人間として、これからまたどうして行こうか、考えるきっかけになったかもしれない。 どんなに歴史に残る偉人もただ生きて死んだだけである。 例外に漏れる人はいない。 目下の望みは、息子が回復して、元気に保育園に行ってくれることである。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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