前回さぼってしまった句会に出席。
最近は筋トレのように俳句を作ってはいないので、行き当たりばったりの推敲不足の句になってしまうことが多い。 下記の上三つを投句して、全部に点が入ったことは良かった。 死に顔は何事も無し山笑ふ 鍋滾る青菜膨るる春日和 五月晴れタオル干すバシバシになる 春日影香煙昇る骨白し 骨を待つ焼き場の談話笑ふ山 こっそりと最期の一打春の果 誰も居ぬ仏間の影や春の昼 連れ合いの手招きで逝く春の果 創作の意味は雲間に朧月 屋根上のひこうき雲と春の汗 おじいちゃんとおばあちゃんの死についての句が多い。 今回句作していて気付いたことは、私にはほとんど季節感というものがないということである。 季節感を重視する気持ちがない、と言った方が正確かもしれない。 季節はいつだって訪れたり去ったりしているし、夏が好きとか言ったりもするけれど、それは私の背後でどうしようもなく起こっているものだ。 季節を追いかけまわすことはしない。 そもそも季節というのは、哲学者の池田晶子さんに言わせれば「無い」ということにもなりそうである。 ただ、この地球では、雨が降る日が続いたり、花がたくさん咲いたり、暑かったり寒かったりするのが、日本では同じような周期で回っているというだけだ。 その「無い」ものについて輪郭を与えるのはいかにも人間がやりそうなことで、「無い」ものを「有る」と仮定して、そうしたものを使って遊んだりするわけである。 おじいちゃんとおばあちゃんがたまたま春と呼ばれる時期に死んだので、事実と背景を重ね合わせてみたりする。 ちなみに、「死に顔は~」の句は、「死に顔は何事も無し小鳥来る」が最初に思いついた。 「小鳥来る」は春の季語だと思っていたのだが、秋の季語であると途中で気付いて慌てて「山笑ふ」にしたのである。 とにかく、おじいちゃんとおばあちゃんが死んだという事実は季節とは関係がない。 たまたま、山が笑っている季節だったのだ。 まあどちらでも句としては成立すると思うが、私としては「山笑ふ」はきれい過ぎてしまうのと以前にも使ったことがあるので、「小鳥来る」の方が新しくて可愛らしくて良いなと思っているくらいである。 「言語野があたたかくなる今日が好き」という季節を無視したいというような内容の句を作ったことがある。 あまり意味が伝わりづらいと思うが、このとき言いたかったのは、季節なんて私には関係がない、それよりも大切なことがある、というようなことだったのだろうと今思い返している。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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