さて現を抜かした夏の旅行であったが、マヤマさんにお持ちした菓子工房ルスルスのクッキーの話を是非書き留めておきたい。
私が最近食べたお菓子の中で最も印象的だったと言っても過言ではない。 旅行の話ではない。 ただのクッキーの話。 それは、ある生徒さんから差し入れですと頂いた小ぶりの銀の缶。 所謂普通の色を焼き菓子の色をしていて、白いレモン風味の砂糖がかかったアイシングクッキーである。 クッキーは、スーパーのものだって誰かの手作りのものだって、まずいということは未だかつて私の経験にはない。 どのクッキーだってそれなりに美味しいものである。 一方で、飛び抜けて美味しいクッキーのことなどあまり考えたこともないし、そんなクッキーがあったか現状記憶を辿れない。 敢えて挙げるなら、友人にもらったおからのダイエットクッキーがざくざくと歯触りが楽しくて小麦の風味が強くて印象に残っているくらいだろうか。 ちなみに私はパンなど小麦製品がそれなりに大好きで、食パンやその他パンにおいてはこの店が良いなというのは少しだけこだわりや考察データがあったりする。 しかし、ことクッキーについてはほぼ無いと言って良い。 という私が何の気なしに食べた頂き物のルスルスのクッキーはすこぶる美味しかった。 普通のクッキーだろう、と何も考えずに口にしたクッキーが、少し目を開くような美味しさだったのだ。 何だろう、その美味しさについて、適切な表現が見当たらない。 普通のふつうの、何の変哲もない、言うなれば特徴に乏しい、クッキーなのである。 ちょっとした特徴としてはレモン風味のアイシングクッキーというところだろうか。 優しい小麦の風味と、優しげで凛としたレモンの風味。 脳天を射抜くタイプの美味しさではない。 食感はさくさくとしていて、舌触りは滑らかで・・・それは多くのクッキーでもあるわけで、もちろんこのルスルスのクッキーにもあるのだが、他にあまり特筆すべきことがないのである。 でも、確かに私が今まで食べたクッキーの中では、最上級に美味しいのだ。 バランスが良い、とても丁寧に作られたクッキー。 そう言えば、不足はあるかもしれないが、過言ではない。 クッキーづくりには少しナーバスでセンシティブで、物静かな、細身で手が白くて指が長い女性が作っているのではないだろうか。 無印良品のロングTシャツを着て、ファッションには無頓着だが、日焼けは嫌いで毎日お気に入りのレースの日傘をさして工房に通勤している。 足元はコンバースのスニーカー、お化粧は化粧下地のみ、目元は濡れているような艶のあるまつ毛が装飾なしに生えている。 両親は離婚していて、母親に育てられたが、母親とは自分がお菓子屋になることに反対されていたためそりが合わない。 でも、正月に娘が持ってくるクッキーを母親は楽しみにしている。 妄想が過ぎた。 星形の小ぶりなクッキーは小ぶりの缶に15枚ほど入っている。 ばくばくと一気に食べてしまいそうだったが、こういうものほど少し誰かと共感したいもので、翌日の来客者のために少し残しておくために伸びる手を押さえつけた。 来客者に我慢して取っておいたクッキーを差し出すと、残り数枚のクッキーをあっという間に口に放り込んだ。 「確かに美味しいですね」と仰っていたが、私ほどの感動はしていなかったように見えた。 まあいい。 ちょうど青森旅行に行く前だったので、マヤマさんにお土産に持って行こうと決める。 東京名物「東京バナナ」や「とらやの羊羹」などの有名どころ買っていくよりも、自分が本当に気に行った東京でしか買えないものを差し入れたい。 調べてみると、菓子工房ルスルスは、浅草、東麻布、銀座松屋に店舗があるとのことだった。 こんなに店舗展開をしているとなると、先ほどの妄想は少し違うのかもしれない。 店は銀座松屋以外は木金土日の12時~しかやっていないという悠長さ。 しかし夕方、早ければ昼下がりの時間帯には売り切れてしまうという人気らしい。 頂いたクッキーは「夜空缶」という名前で、何より驚いたのは1620円という値段である。 一枚当たり、あの小ささで、100円ほど、ということになる。 それでも売れているのだから、立派だとしか言いようがない。 購入ついでに、そのあたりの銭湯サウナに向かおうと本店の浅草に向かうことにした。 浅草駅からも三ノ輪駅からも徒歩10分以上。 物にたどり着くまでの距離感は、希少価値を高めるだろうか。 猛暑の中、やっと見つけた浅草のお店は、古民家のような佇まいで小さな看板だけがひっそりと立っていた。 私が訪ねたのは木曜日で、平日はイートインも閉まっている。 小さなショーケースにはクルミやオレンジピールやブルーベリーのケーキ、小さなシュークリームなどがこれまた密やかな雰囲気で並んでいた。 店員さんはレジの奥にも何人かいらっしゃって、どの方がルスルスのオーナーさんなのか、あるいはその場所にオーナーさんがいたのかさえも分からなかった。 お目当ての夜空缶が売り切れていないことにほっとして、せっかくだから他にも何か買っていこうと物色する。 でもこの後銭湯に行くから生菓子が買えない、だから、ブルーベリーとクリームチーズの小さなマフィンをひとつ買った。 ブルーベリーとクリームチーズの組み合わせは、前々から好きなのだ。 夜空缶は差し上げるものだから食べてはいけない。 その夜、ブルーベリーとクリームチーズのマフィンを食べると、やっぱり何の変哲もない、しかし美しさのある美味しさが立ち上った。 私としてはクッキーの方がどんぴしゃりとハマった感じはしたが、マフィンもそれと同じ材料で作られたのだなあという優しい風味と丁寧さが存分に伝わってきた。 マヤマさんのお口に合うかどうか、差し上げた後何の気なしに感想を聞いてみると、「かみさんがこりゃあ良いお菓子だわ」と言ってほとんど一気に食べてしまったのだそうだ。 やはり、美味しいのだ。 自分のためだけに、ごはんにもならないクッキーを買うには、少々値段が張るし遠い。 しかし、ルスルスのクッキーを持って誰かに会いに行って、おこぼれにあずかろうかと思う。 いやしかし、これ値段を知らずにぱくぱく食べて本当に良かったと思う。 ありがたがって食べる部類のものではない。 1枚1枚、100円玉だと思って食べるのは違う。 これを読んで買う方がもしいたとすれば、その点、もう注意のしようがないのだが、ご注意願いたい。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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