夏のような強い空気に耐えかねて、朝からエアコンを入れる。
食パン狂であった私の”狂”が、高止まりからやや下がりつつあることを先月から感じていた。 朝はトースト、絶対、譲れない。 と言っても食パン狂になったのは、出産して朝ごはんを食べるようになってからなので、まだ2年も経っていない。 来月で息子は2歳になるが、食パン狂の軸とともに考えると、息子の2歳も食パン狂の2年も、私にとってはとてつもなく長いように思える。 先日も書いたが、おっぱいを止めてからたった2か月半ほどしか経過していないことと同じように。 例えば息子のいなかった30~31歳の2年間と、34~36歳の2年間とを主観的に比べてみると、圧倒的に後者の方が長い時間のように感じる。 これは直近のことだからということではない気がする。 無論、赤ちゃんという24時間手のかかる存在の世話をずっとしてきたことがそう思う原因なのだろうけれど。 やはりもっと長い間息子と一緒にいるような気がするし、もっと長い間食パンが欠かせなかった気がするし、もっと長い間息子はおっぱいを飲んでいないような気がする。 食パン狂がひと息ついて、朝ごはんにおにぎりを作ることにした。 茶碗にごはんを盛って海苔と一緒に食べることでも良いのだが、どうしてもおにぎりが食べたくなった。 私のおにぎり欲は、作ったおにぎりがイメージにぴったりと合って満たしてくれた。 おにぎりはなぜ、茶碗に盛ったごはんとは違う喜びがあるのだろう。 茶碗に盛ったごはんが劣るわけではなく、おにぎりには別の喜びが存在する。 それはたぶん、一口大に切った鶏肉を炒めるのと、それを串にさして焼く焼き鳥の違いと同じかもしれない。 ぎゅっとすると美味しくなる、という点で。 手がかかっているから愛情がこもって美味しくなる、というのも一理なくはないかもしれないのだが、これに関してはもう少し明確な美味しさの理屈があるのではないかと思う。 そう思って、適当に検索をかけてみるのだが、あまり的を射たというか私が納得できる答えが見当たらなかった。 失われた塩分を補給しながら食べるから美味しく感じる、という論がたくさんあったけれど、私にはどうも「にぎる」「ぎゅっとまとめる」というところに美味しさのポイントがあるような気がしてならない。 お寿司は私はあまり好きではないが、ちらしずしではなく普通のお寿司はシャリがぎゅっと握られていることの美味しさがあるのではないか。 1日目は塩昆布おにぎり、2日目はひじきおにぎり、3日目はじゃこおにぎり、4日目はふりかけおにぎり。 きつく握るのは良くないイメージがあるおにぎりであるが、ふかふかで食べると崩れるような握り方は美味しさが減るような気がした。 息子に「おにぎり」と教えると、「ぎぎぎ」と言っていた。 しかし息子にはあまりヒットしなかったようで、食べてくれる日と食べてくれない日の差がある。 ちょうど、基本偏食の息子の食べ方がまたフェーズチェンジに差し掛かった気配があるということもある。 握った手間の分だけ、食べてくれないと私の悲しさは増大するので、今後息子におにぎりを作るのはちょっと考えようと思う。 食パン狂の晩期には、私はあまりその他のパンを欲することもなくなっていた。 それまでは昼食にパン屋のパンを買って食べることが楽しみであったのだが、食パン狂のせいで全体的なパン食傷に陥っていた。 1週間ほど朝の食パンから離れてみて、パンの昼食を今欲している。 そしてまた、明日の朝は食パンでも良いかな、なんて気分にもなっている。 私は食パンについて、一周回ったのかもしれない。 何事も、気になったら、一旦はしゃぶり尽くしてみれば良い。 ゴロワーズを吸ったことがあるかい、とムッシュかまやつも言っている。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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