「SWITCHインタビュー 達人達」に出ていた金田一秀穂さんの話が面白すぎて、彼の著書である「オツな日本語」を買った。
中身をよく確かめずに買ったけれど、季語を含む季節の言葉についてのものだった。 これはまだ春のパートしか読んでないけれど、私はそういった類の言葉の話が大好物である。 番組の中で扱っていた、「存在」を表す「ある」「いる」。 これは英語にはない表現のようで、とても興味深かった。 人、が、いる 馬、が、いる 花、が、ある 魚、が、いる 魚の干物、が、ある クマのぬいぐるみ、が、ある ぬいぐるみのクマ、が、いる 駅前にタクシー、が、いる 駐車場に(停車している)タクシー、が、ある 金田一秀穂さん曰く、「ある」「いる」の違いは、気持ちのあるなし、共感できるかどうかで決まる、自分と同じように考えられるかどうか、という区別らしい。 ここまでは番組の内容なのだけれど、私がちょっと気になったのは「遺体」とか「魂」とか「霊」という言葉だ。 遺体、が、ある。 魂、が、ある。 霊、が、いる。 「遺体」というのは人やペットなど、愛着があった生き物に対して使われ、死んでから埋葬されるまでの比較的短い時間しか存在しない。 「死体」でも「死骸」でも意味的には同じなのだけれど、とりあえず、気持ちのあるなし、愛着心という観点からは「遺体」にしておこう。 気持ちのあるなし、共感できるか否か、という区別で「ある」「いる」が分けられるのであれば、死んでから間もない「遺体」は「いる」でも良さそうなものだ。 「さっき死んだお父さん」が「いる」、「お墓の中に骨になったお父さん」が「いる」、であれば「お父さん」に係るわけだから「いる」となる。 「お父さんの遺体」は「ある」となる。 同じ時間経過をたどり、全く同一の物を指す「死んだお父さん」であってもそこに区別が起こる。 「遺体」は肉体そのもののみを指す言葉であって、そこに気持ちを共有できる「お父さん」はいない、つまり観念的なところの「魂」はない、ということなのだと思うけれど、では「お父さん」が死んで体から抜け出た「魂」に「お父さん」が存在するとして、その「お父さんの魂」は「ある」となる。 また後日「霊」となった「お父さん」は「いる」となって、再び「お父さん」は気持ちを持って自分と同じように考えられる存在に戻る。 「お父さんの遺体」と「お父さんの魂」には気持ちがなくて、「お父さんの霊」には気持ちがあって自分と同じように考えられる、ということになる。 となると、物質としての「遺体」もある種生きている人の願いである「霊」も「ある」「いる」はわかるような気がするけれど、では一体「魂」とは何なのだろうか。 一応断っておくけれど、これは言葉について考えているだけで、実際に死んでいる私の父について悩んでいるとかそういうことではなく、私の死生観について話しているわけでもない。 ただ、父が死んだとき、火葬場で父の肉体が焼かれて骨になったとき、「無くなった!」と驚いたし、仏間にあった父の遺体は近寄るのが怖かったのに、骨になった父は「父ではなくてこれは骨だ」というようなことを思ったことから派生してはいる。 “「名前が変わるというのは、例えば「刺身」も「死んだ魚の生の肉」も言ってることは同じなんだけど、ちょっと違うように感じられるということなんです。「死んだ魚の生の肉」は食べたいとは思わないけど、「刺身」だと食べれます。 でも実際は全く変わらない。 つまり僕達は「意味」とか「言葉の希望」を食べているのであって、「実体」そのものを食べているわけではないんです」” これも番組の内容で、とても興味深い。 つまり生死の間にはもう圧倒的断絶があり、誰もが死ぬことを受け入れがたかったり、自分と同じ生物を殺して食べている事実を日常的に直視しないで済むように、そのような名付けがなされてきたのだろう。 しかし実際に身近なものが死んだときにはそれから逃れることはできないから、その直後には絶対に「いない」ことや気持ちはそこにないことを認識するための「遺体が“ある”」という言葉と言い回しなのかもしれないし、またそれでは生きている人間の収まりがつかないから、気持ちが存在するものとして「霊が“いる”」というふうになったのかもしれない。 言葉は何かに対して良いように充てられて存在し、それを私たちは無意識的に、あるいは意識的に選択して使っている。 私が父が死んだことを「亡くなった」とは言わないのはとても自覚的だ。 「亡くなった」では他人事みたいで実感として遠い気がしたからで、「死ぬ」という言葉の「意味」を捉えたかったし考えたかったからなのだと思う。 それで、「魂」が何なのかは置き去りだけれど。 言葉がどこかで時点でなんらかの意味を付与されて生まれたとしても、それは自然発生的なものでほとんどの場合はその命名者などわからない。 おそらくその言葉が生まれた時点の人々の生活に根差した合理的なもの、という感じで生まれていったのだろうけれど、それにしてはあまりにも言葉というものは無数にありすぎる。 言葉というのは人智を超えてそこに“在る”ものであり、全員がそれにいつでも触れることができる、”山”、“海”などのいわゆる“自然”、また“猿”、“鳥”、“人間”などの“動物”と名付けられた“自然”と同じように、言葉は“自然”なのである、と言っていた哲学者の池田晶子さんを思い出す。 ただ“在る”ものを共有する、それがコミュニケーションであるということは、私はいつかにとても腹落ちしたことのひとつである。 金田一秀穂さん曰く、「人と人とかコミュニケーションするのはセックスが最高の方法。でも全員とセックスするわけにはいかないから、その他のコミュニケーション手段として発生していったのが鳴き声であり、言語である」だそうだ。 これもそれぞれの人が持っている、“在る”ものを共有する、つまり人は存続や生活のためにコミュニケーションが必要ということに加え、私たちはいつだって人と何かしらのコミュニケーションをしたいという根源的な欲求なのだろうと思う。 まあ言語の起源などについては、言語学の分野でも哲学の分野でもとめどなき議論がなされているだろうし、その深淵たるや・・という感じだと思うし、掘るにはとても骨が折れるので、とりあえず置いておく。 しかし言葉の話というのは本当に楽しい。 洒落た言い回しとか、あまり使わないような難しい熟語も好きだけれど、そもそもの意味や成り立ちや発生源などの原理的なところもとても興味深い。 誰のものでもない言葉を意のままに扱えるのは憧れだ。 また一方で、言葉など戯言に過ぎない、という面も然りだとも思っている。 そんなことを誰か教えてくれるとか付き合って話してくれる人がいるならぜひしてみたいものだ。 途中で今のように収集が付かなくなって疲れてしまうとは思うけれども。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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