いろんな身内の最近の話を聞いた。
へー、ほー、そうだったの、あぁそうね、そりゃ大変、と私は事も無げに聞く。 私ではどうにもならないことばかりで、まあ私もよほどの頼まれごとでもない限り。実際には何の行動も起こさないのかもしれない。 おばあちゃんにも会って、初めておばあちゃんがやさぐれていたのを見た気がした。 「わしゃあもう早う死にたい」と、冗談ではなく言っていたように見えた。 入れ歯を入れ直すこともなくやせ細って。 それでもどら焼き半分、「腹が減って」と食べていた。 「皆良くしてくれるけど、昔のようにはいかん」と何だか少し怒っているようにも見えた。 おそらく初めて、「元気にやっとるかん」と私を気遣う言葉もなかった。 正月には今でごはんを食べていたけれど、今は寝室からほとんど一歩も出ない生活をしているようだ。 立派な椅子のようなポータブルトイレを寝室内に入れて。 毎日誰かがごはんを作りに来たり、話に来たりはするものの、基本的にひとりで、寝たり起きたりの生活。 テレビもラジオも聞かない。 幸い、寝ることには困っていないらしい。 おばあちゃんがやさぐれているのを、私は生まれて初めて見たように思う。 身体が不自由になっていくどうしようもなさと、当然ながら自分の思うがままには動いてくれない家族、自分自身がお荷物のように感じてしまう申し訳なさ。 3人の子どものうち2人に先立たれた悲しみ、半世紀以上も一緒に暮らしてきた伴侶とのやむを得ない別居。 どれもこれも世間一般に、よくあること、なのかもしれない。 でも、大切なのは世間との比較で安心することではなくて当人の気持ちで。 当人にとってみたら晩年も晩年、やるせない気持ちでいっぱいなのかもしれない。 しかしながらどれもこれも私の想像で、ともすれば私自身がそう思っていることになってしまうけれど。 またしても何にも言えなかった。 「また来るで」と言うのがやっとで、手も握れなかった。 「恩返し」という言葉がある。 それは恩返しする側の勝手な解釈で、勝手に恩義を感じて勝手にやることだ。 恩を受けるのは肉親の誰かからだけではなくて、見知らぬおじさんかもしれないし、もうとうの昔に死んでしまった画家の絵かもしれないし、何ならふと吹いてくる風かもしれない。 そしてそれは、それを与えてくれた特定の何か相手だけに返される恩ではない。 身の回りの誰かや今後出会う誰かに、自分が受けた「恩返し」を、満を持してではなく、日常的に粛々とやっていくのである。 荒々しくて不器用で遠回りで、免罪符的な自己満足であることを自覚しながら、“あのときのあれ”を受け継いで遺していきたいと、そんな気持ちを携えながらいつだって自分の都合を鑑みているのである。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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