さて、私の妊娠は継続しているわけだが、現在10週に入って子宮はこぶしほどの大きさになっているらしい。
昨晩仰向けに寝て不意にお腹を触ると、下腹部真ん中あたりがぼこりとしていることに気付いた。 なぜか、まさか癌なのではと一瞬本当にどきっとしたのだが、もしこんなに大きな癌なのならもう既に相当にまずい状況になっているだろう。 正直なところ、今の感情として子どもや命が宿っているという実感がほとんどないのだが、腹の中で何かが私の子宮を拡張していることだけは日々感じている。 時折、つきんつきんと痛みが走るのは、おそらく成長によって筋肉がひっぱられたりしているからだろう。 また、悪阻があるのはまだ母体が妊娠の状態に慣れないということなのかなと思う。 先日の検診で何となく丸まった人の形をしてきて、その真ん中で拍動している白い影を見た。 できるだけただ状況や自分自身の感情を受け取ろうとほとんど何も考えずに検査を受けるのだが、拍動しているのを見るとなぜか不意に泣きたくなる。 やはり私は、私とは別の生命体が腹の中にいることに感動でもしているのだろうか。 私たちの身体は、妊娠していなくとも日々とてつもなく神秘的で不思議な反応や代謝などを繰り返し、移り変わっている。 とても多くのことが不随意の配下で行われている。 妊娠による胎児の成長過程も、受精のトリガーのみ意志を行使できたとしても、その後はほぼ関与することはできない。 我が身体に確かに多くは手を下せないのが、我々の生命体というものなのかもしれない。 現在、胎児の臓器や歯や髪の毛の素となるものが作られている段階らしいということを「トツキトオカ」という可愛らしいアプリが教えてくれるのだが、私が特別に何かを思ったり願ったりしなくても育つものは育っているのだということだけを今は受け取っておくことにする。 最近よく妊婦は孤独だ、と感じる。 どんなに父親になる人が色々と協力してくれたりしても、私の身体の変化は私だけのものであり、その感覚というのはどんな言葉を尽くしてもそのすべてを無論共有のしようがない。 妊娠にまつわることはほとんど妊婦の身体にまつわることだから、当然といえば当然である。 ふと男女で分担しても良いではないかと思ってしまうのだが、病院の検診も妊婦本人が行かなければ何の意味も無い。 身体も時間も妊婦負担である。 体温が異様に高いことや白菜や大根の煮物のことを考えると気持ちが悪いことやわりと頻繁に起こる軽い下腹部痛も、逐一報告するような話ではないのだろうし、厳密に寸分のずれもなく私の微妙な不調など分かるはずもない。 ただ、このことは男性が本当に純粋に経験してみたいという人もいるわけで、とやかく言うようなことではないとも思っている。 私たち人間はそういうふうにできていて、そうなのだから仕方がない。 妊娠出産子育てはふたりで平等に行うもの、というその発想がまず間違っているのだろう。 そもそも、妊娠如何に関わらず、自分の事細かな状況を他人に分かってくれなど土台無理な話である。 だから、妊婦が孤独なのではなく、人間が孤独なのだという当たり前のことだけなのかもしれない。 拍動を見て一瞬だけ泣きたくなるのは、何にもできないけれどがんばれ、と思う同じ人間の立場からの応援の気持ちなのかもしれない。 胎児もまた孤独なのだろう。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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