早く寝て早く起きた。
と言っても、1時に寝て9時に起きた、というくらい。 書作を済ませ、ブログを書き、部屋中の掃除をし、クリーニングを取りに行き、午後からはレッスン。 書作は済んだ、ブログも今書いている。 問題は部屋中の掃除とクリーニングの引き取りに行けるかどうか。 時間的問題ではなく、ただのやる気の問題で。 朝は気持ちが良い。 でも、昼も気持ちが良い。 夜も気持ちが良い。 良いときは良い。 朝ならではの気持ち良さとは何だろうか。 日光、特に朝日はおそらく多くの場合で人を快活にする。 それに単純に、明るいのは物が良く見えて良い。 朝の、これから日が高くなるという安心感は、初夏の頃の夏への希望と似ている。 これから、というのは、その最中、よりも好ましいのかもしれない。 まだまだやれる、という半ば言い訳のような希望であるようにも思える。 今は気温的快適度はとても高いが、秋も深まるばかりで気温は落ちていき、焦燥を煽るばかりだ。 だから秋の朝は、明から暗へ落ちるばかりの束の間の希望を、より刹那的心地よさとして際立たせるのかもしれない。 午前はあっという間に過ぎ去って、正午を超えると今の時期なんかは特に暗くなってしまうことにもう焦り始めることになる。 都心と言えども社会は日中を中心に動いているし、夕方までしか営業していない店や施設も多い。 ただ、焦ることはない。 どうせまた朝はやってくるのだ。 こんなにも心地よい秋の朝をコーヒーを飲みながら味わおうではないか。 と言っているうちに掃除もせずクリーニング店は閉まってしまうのかもしれない。 無になる、ということはとても難しいことである。 無であるということは、無になろうと思ってもなれないし、無であることを自覚することも論理上不可能である。 100回くらいサウナに通い詰めて、最近はあまり「ととのう」という言葉も使わなくなってきた。 そして瞬間的にふと、「今さっき私は無であったのではないか」と感じることがここ何回か続いている。 それまでは水風呂の後の休憩中にあぁとても気持ちが良い、ということを自覚的に自覚していた。 身体に平常時よりも血が巡っていることを確認し、楽しくもないし悲しくもないという状態を確認していた。 その状態では本当の意味で、ととのってなかったのかもしれない。 その無のような状態では私の脳は微塵の何かも考えておらず、ただ心臓が動いている我が身体のみがそこに存在している、というような感覚になる。 おそらく、大方の身体的信号を止め、芯からリラックスしていると言い換えても良いだろう。 就寝中もそれに近い状態は起こるのだろうが、夢を見ていたり身体を掻いていたりいびきをかいていたりするときっと身体は休まっていないことになるだろうから、私たちの身体が本当に無になれるときというのはかなり少ないのではないかと思う。 無論、その「今さっき私は無であったのではないか」と考えた瞬間にもう無ではなくなっているのだが。 この状態に陥った自分のことを、私はなぜだかいつも「あぁ良かった」と思う。 あなたも何にも気にすることもなく自然に任せて力が抜けるのね、と特別なイメージのない女神さまに言われているような気分になる。 ただ、このことを今話題に出して考えてしまったから、次にサウナに言っても私は無になることから遠ざかってしまうのかもしれない。 さて、掃除でもしたい。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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