やっと晴れた。
待望の青空。 曇天を好天と言ふ夏のあり という句を前に作って、その通りだと思っているけれど、これだけ雨に降られると青空が俄然恋しくもなる。 青空、やっぱり、好き。 台風の影響で延期になったレッスンがあって夕方まで時間があるので、シーツを洗ったり掃除をしたり、植物の世話をしたり。 段ボールを片づけ、瓶や缶を捨て。 また追加で少しの服と少しの靴もゴミに出す。 捨て癖づいている。 強風のおかげで、ベランダに出している木瓜が生気を取り戻していた。 灼熱の直射日光に弱いのかもしれない、夏の間にもう死んでしまったのだろうかと思うほどに枯れていた感じがしたのだけれど、今日見てみると新芽を吹いている。 古く焦げ付いたような葉っぱは強風にさらわれ、瑞々しく艶々した葉っぱだけが、赤ちゃんの可愛さで枝にくっついている。 私は寿司が好きではない。 好きではないだけで、特に問題なく食べられるけれど。 刺身もたくさんはいらないけれど、苦手としているのは酢飯の方だ。 お酢が好きではないので、マヨネーズも好まない。 けれど、ポン酢はあった方が良いときもある。 私は寿司が好きではない、というある種のレッテルを自分自身で強固に貼り付けて、それが自身と癒着しているだけなのかもしれないと、最近はそのレッテルを剥がしにごくたまに誘われればごくたまに寿司を食べることがある。 以前は、マヨネーズも大っ嫌いという体を取っていたというか自分でもそう思いこみ過ぎていたので、たこ焼きにもブロッコリーにもマヨネーズをつけることはなかった。 サンドイッチも食べなかった。 が、今はマヨネーズもいけるのかもしれない、と思っている。 もうすでに、マヨネーズ入りのサンドイッチはよく食べる。 私の「酢嫌い」は、言わばアイデンティティの一部を形成あるいは象徴してきたといっても過言ではない。 「お酢がダメで。お寿司もマヨネーズも食べません」ということはちょっと特別な感じがしていたのだと思う。 特別なものがこれといってない自分について、「私は個性的な人間です」という自己アピールに他ならない。 虚栄だ。 そんな恥ずかしくちっぽけすぎる虚栄に、その上無自覚に支配されていたのだ。 歪曲した個性のアピールによって、誰も得をしないどころか迷惑すらかけ、自分だって美味しいものを取り逃がすという損をしていたかもしれない。 と思ってつい先日も寿司を食べに行ったわけだが、うーむ、やっぱりそんなに好きではない。 友人があまりにも美味しそうに食べるので、言えなかったけれど。 あと、一緒にいる人がそんなに美味しそうに食べるなら、私がそれをそこまで好まなくてもまた行きたいとさえ思うけれど。 まあでも、確かに美味しさは分かる。 美味しいものは糖と脂肪でできている、とはよく言ったもので、人間の快感物質を出す食べ物として非常に完成度の高いものだろう。 合わせて日本酒をきゅっと、なんてのも良い。 ただ、そのお店でねぎとろ軍艦がおそらく酢飯ではなく温かい普通のご飯だったように思うが、私はそれを食べたとき一番に興奮していた。 ねぎとろ海苔ごはん、酢飯である必要は私には感じられなかった。 あとやっぱり刺身は量が食べられない。 割と早い段階で、生の魚感が私の中で飽和してしまうのである。 こんなことを書いていたら、いや、こんなことを書いていながら、また寿司が食べたくなってきた。 ラーメンが食べたいときもある、パンケーキが食べたいときもある、リンゴが食べたいときもある、そんな私の欲求の当たり前の変化の中に、寿司が食べたいときもある、あるいは寿司が食べたい、そんなふうに明言できるようになることは、何だか涙が出そうなことである。 何らかのマインドブロックをぶち壊したことにもなりそうである。 マインドブロックとは、リベラルのように広まり過ぎてちんけな意味に成り下がりつつあるような気もするが、各人がマインドブロックを外していくことは大切なことだと思っている。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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