久々に濃いめのメイクをして、久々にストッキングをはき、久々にワンピースを着てストールを羽織り、久々に高いヒールをはく。
靴擦れを見込んでかかとには絆創膏をひと足ずつに一枚。 絶対にはき替えたくなるだろうと、リュックには低いヒールのパンプスをしまった。 ハレの日、書作展の表彰式に出席。 8年ほど前に買った黒のベロアのワンピースは、冬の間の正装パーティーごとに毎度着るものだ。 夏と冬、私は一着ずつしかそういった正装を持っていないし、増やすつもりもない。 アイシャドウもマスカラも、2年ほど前には毎日していた。 10センチくらいのヒールも5年ほど前にははきこなしていた。 今やもう全然そんなことをしなくなった。 服に興味がないわけでもなく、オシャレが嫌いなわけでもない。 快適さを重視するようになったので、オシャレのための我慢はならなくなり、優先順位がかなり下がってしまっただけだ。 しかしながら、ドレスアップをするのは、少しだけ気持ちが昂る。 背筋がシャンとする。 鏡やガラスに自分を度々映して、良き角度をチェックしてみたりもする。 しかしやっぱり、当然ながら歩きづらさや窮屈さがすぐに襲ってくる。 駅までの数分の道のり、私はもうやって行けない、という気分になって、何か身体のバランスが狂っていたのだろう、首の筋を違えてしまった。 電車に乗る前に、会場まではとリュックから低いヒールのパンプスを取り出してはき替えた。 よく覚えていないけれど、「曙の間」「鳳凰の間」というような仰々しい名前のパーティー会場がいくつかある大きなホテルで表彰式はあった。 会場のみならずロビーなどにも敷かれているふかふかの絨毯は、掃除機でないと掃除ができないような気がするけれど、客が寝泊りするホテルでどのように掃除をしているのだろうか。 出席者の方々は、お着物を召した方々が多かったけれど、普段着そのままムートンブーツで来ている方もいた。 私のような洋装は私を含め2人だったけれど、それは書が和の世界のものであることに加えて、平均年齢が高いからなのかもしれない。 40歳を越えるくらいの年齢になったら、ああいった場所に出席する際の服装は、着物でないのなら確かに悩んでしまうかもしれない。 あの程度の感じであれば、人前に出ることの緊張も、おそらく人からは緊張しているとは思われないくらいに振る舞えるようになった。 見られている、という場合の緊張は今でも結構するけれど、自分がメインに見られているわけでなければ雑多に溶け込んでそつなくやれば良い、ということを身に付けた。 会場で、私の作品の講評を書いてくださった先生にお話を聞くことができた。 私の作品は、ある箇所の空間の取り方がセオリーと逆だったらしいのだが、逆にそれが新鮮で良い、という意見があったと伺った。 私は割とセオリーに則って作品を書いているつもりなのだけれど、その空間的バランスについてのことは全くもって知らなかった。 今回の作品について言えば、その箇所の空間バランスにはさっぱり無意識であった。 無知が良いこととは全然思わないけれど、何気なしの感覚が功を奏したのは嬉しいし、セオリーから外れているけど良い、という評価が付くというのは、色々あれどこの世界のフラットさを感じてそのことも嬉しい。 団体としては、受け継ぎたい独自の作品づくりのセオリーや章法があるのは当然のことだ。 古典を血肉にしながら、後世の多くの人が受け継ぐに値する新しいやり方、フレームを編み出して系統立てた創始者は本当にすごい。 慣れないことで疲れ果ててしまった私は、祝賀パーティー会場を早々にあとにした。 帰宅してすべてを脱ぎ捨て、身体の解放に、湯船に浸かったときのような唸り声をあげたくなった。 小さなリンゴを洗ってシャクリと丸かじりした。 明日、会場に行って3カ月ぶりくらいに作品と対面する。 大学時代の先生で、句会仲間でもある方がいつものように来てくださるが、「今回の作品のテーマは何ですか?」と聞かれたら「気合いと根性です」と答えることに決めている。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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