いつものユーカリをいただいて、その紙袋に私は帰りがてら何度も顔を突っ込んだ。
冬のユーカリの香気は、春や夏よりもひんやりと締まっていて、芳しさが凛としている。 ユーカリをくださったり、私を度々ご実家に泊めて至れり尽くせりしてくださったり、一緒に旅行にも行ってくださるその方の家は、ユーカリが庭に生えている。 先日、まるで自分のものかのように書いたプレクトランサス・アロマティカスもこの方からいただいた。 なんて敬語を使ってみるものの、普段は私はこの方に全く敬語を使わない。 元の会社の先輩で、もはや友人関係というようなことしかしていないのだれど、「先輩」と位置付けられてしまったその関係を、7つくらい年下の私が「友人」と表するのもいかがなものかと思って、こうして表記するには敬語になってしまう。 そんなことを言って、私はあまり自覚はないのだけれど、だいぶ早い段階から喋っているときには敬語など解かれていたらしい。 先輩は、萬田久子とセックスアンドザシティのシャーロットに似ている。 髪の毛がたくさんで、生え際がみっちりで、黒目がちで、太めのカチューシャが良く似合う。 私はなぜか中高生の頃、豊満なソバージュロングヘアの西洋の外国人にとても憧れていた。 だから私はとても長い間、高校生から24歳くらいまで、髪は腰くらいまである超ロングヘアにパーマをかけていた。 でも、おでこが広いことと、生え際が甘いことで、カチューシャでオールバックにすることが似合わなかった。 社会人になって、この先輩に会って、日本人でもこういうふうにカチューシャが似合う人がいるのか、と密かに憧れていたものだ。 先輩は目鼻立ちはくっきりしているけれど、特に西洋人風ではない。 思えばあの頃、私は先輩のファッションを割と参考にしていた節がある。 好みが似ている、ということもそうだったし、ピアスの大きさとかブーツの履きこなしとか、マニキュアのあり方とか、なるほどと思うことがたくさんあった。 ファッションだけでなくて、立ち居振る舞いもそうかもしれない。 おしとやかとかそういうことではなくて、奔放なのだけれども、最終的には品がある。 私にはそんな風に見えていて、もちろんそのままインストールしたわけでは全然ないし、こんなことを言ったらいいように思わないかもしれないけれど、ところどころは参考にしていた。 少し久しぶりにジャズのライブに行く。 ジャズという音楽が何者であるのか、1mmたりとも分かっていなかったし興味もなかった私だけど、ジャズの話を聞く機会がたくさんあって、私はジャズを楽しめるようになった。 ついでに、ファミレスやカフェやチェーンの居酒屋や洋服屋などでジャズがよく流れていることを知った。 今回行ったお店は3度目くらいだけれど、結構いろんなものが変だ。 コースターはCDだし、電球にはシェードとしてビニール袋がかかっているし、トイレのペーパーホルダーには破れかぶれの顔が張り付いているし、張りぼてのベースが吊るされているし、ウルトラマンやゴジラのフィギュアがたくさんあるし、マスターが密かに書いている小説がウェブ上にあったりする。 他にも数えきれないほどの、何かよく分からないものがある。 マスターの、俺の城、なのだ。 常連さんという近所のご家族もいらしていて、文ちゃんという4歳の男の子がいた。 文ちゃんは私のことを最初はとても警戒していたのだけれど、どこかのタイミングで存在を許してくれたらしく、私におっとっとを開けてと頼んできたり、おっとっとをひとつずつくれたり、私のテーブルにフィギュアを山盛り並べたりした。 姪や友人の子どものおかげで小さな女の子には比較的なじみのあるけれど、小さな男の子のことはよく知らない。 このくらいの年齢の、本人の素質ではないところの性別、というものにはとても興味がある。 文ちゃんは、怪獣が好き、とかはいいとして、男の子特有の何かを持っていた感じがした。 一体それは何なのだろう。 親が強くそう言わなかったとしても、「男の子なんだから」「男の子らしく」という暗黙のメッセージはどこに行っても存在する。 しかし、仮に外界からの暗黙のメッセージが全くなかったとしても、男の子は男の子で、女の子は女の子、なのだと当然ながら思う。 これは、生物学的な身体的性差を示す「セックス」の意味において。 しかし、生物学的な身体的性差としての区別以外の「セックス」も存在するのではないだろうかとも思う。 「自分らしさ」というものには、往々にして身体的性差でない純粋な意味での「男の子らしさ」「女の子らしさ」があるのではないだろうか。 もはやこれは「ジェンダー」なのだろうか。 何を以て、どこのあたりからが、「ジェンダー」なのだろう。 まあこれは、私のあることに対する言い訳として存在させたいがためにこねくり回したい節があるようにも思う。 ライブは、創り手の情感たっぷりで、良かった。 ライブを聴きながら、総合的な“強さ”について考えながら、未だきっと“私であること”の傍観者を止められない。 私は、羨ましくて、ずるい、と、やっぱり本気で思うのに。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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