何を考えて書いているのですか?
と聞かれることが時折ある。 一般的な「綺麗な字」を書く人が、わざわざこねくり回して下手風に書いたりすることや、その発想の在り処は確かに他人から見ると不思議に見えることもあるだろう。 私なりの創作の秘密、なんてものがあるのだろうか。 私の創作の基本は所属団体の画面構成法や筆遣いである。 専らそれだけを崇拝しているわけでもなく丸のまま模倣したいとも思っていないが、赤ちゃん鳥が初めて見たものを母だと思ってついて行くかのごとく、基軸はそこにあると言って良い。 所属団体の筆法は書壇においては異端傾向であり、文字を逸脱しているとか古典を蔑ろにしているとかアクロバティックだとかやりすぎだとか言われることもあることを私が認識したのはつい3年ほど前である。 しかしながら〝創作〟なんて壮大なことを心から愛せるようになった、そして〝創作〟を大それたことではないと地平に下ろしてくれたのは、その画面構成法や筆法の所謂ジャンプ力のようなもののお陰と思っているので、異端だろうと何だろうと私は感謝の念を強く抱いている。 最近の私は、明文化できている、あるいは言語化されている単語ストックがあまりないので、創作と言っても参加させてもらっている書コミュニティの毎日のお題を書くことが多い。 誰かに、社会に、発したい溢れ滴り落ちるような言葉は今はないけれど、それでも何か書きたいわけで、それは絵ではなくて文字の方が良くて。 あと、日々の研鑽は苦しくてもやっている方が総合的に見て楽だということもあったりする。 だからもうかれこれ500日ほど、毎日毎日一日も漏らさずに執念で出し続けている。 当日の朝に翌日のお題発表となる。 翌日昼の12時が提出期限なので、丸一日と少しが書き上げる時間だ。 仕事をしていたり出かけていたり、その寸暇を縫って書くこともあれば、2時間以上をかけて仕上げることもある。 お題は参加者が持ち回りで出していて、とにかくどんな言葉でも良い。 過去には。変わり種としては「♯」記号なんてものもあった。 「♯」はどの書き順で書くのか、どんな書き方をしても筆文字となると「井」か「丼」の雰囲気が醸されてしまうのがなかなか面白かった。 しかし、どういうふうに書いても様にならないし、画数が少なすぎて書くのが楽しいものではなかったように記憶している。 さて、明日のお題は「九月の河童」である。 まだ書いていない。 とりあえず言葉の意味を調べてみるが、特別な意味は無いらしい。 さて私はここからどのように書いていくのか。 言葉から浮かぶイメージを書にする場合もあるにはあるし、言葉に全く引っ張られないで書けるかと言ったらおそらく無理なのだが、私は言葉から連想される映像を直接的に書くことは少ない。 また書く前に書の完成図ができているといったこともほとんどない。 ただ、こうすると楽に作品ぽくなる、という私なりの手法は2、3あって提出期限ギリギリの制作になってしまったときは書く前に完成イメージが存在することもある。 この場合は筆ではなく竹ペンといって竹の先端を万年筆のペン先のように象ったものを使うことが多い。 大抵の場合は、その辺にある筆をおもむろにとってその辺にある墨でおもむろに書き始める。 一枚目のそれは、おそらく無意識に出てしまうお母さんの残像、所属団体の筆法を利用したものであることが多いと思う。 そこから文字の大きさや雰囲気を探っていく。 紙を縦にしてみたり横にしてみたり、時々横書きにしてみたり。 線を細くしたり太くしたり、重ねてみたり離してみたり、スピードを速めてみたり遅めてみたり、紙を変えてみたり筆を変えてみたり。 だいたい、いつもと同じでは辟易とするので、いつも行かない方向に線を走らせてみたりする。 例えば明日のお題であれば多少文字数があるので、どこで改行をしようかも作品づくりの大きなポイントとなる。 文節で切ることが普通であるが、普通である必要はどこにもない。 しばらく踏ん張っていると、構成レイアウトが決まってくる。 それを基準に微調整を繰り返していく。 他人から見たら善し悪しなど見当がつきそうもない善し悪しを書き上がり瞬時に判断し、捨てたり取り置いたりしていく。 墨がかすれたとか線が飛んだとか、そういった偶然の産物は大好きだけれど、それをも出来うる限りまっさらな地点に引き下ろしながら判断していく。 どんなに読めない書であっても、書は文字を書いている。 書き手である私も抽象画を書いているつもりは毛頭なく、文字を書いている。 ここが私にとっての書の面白みであるのだが、書く文字は記号としてのルールがあるのだからすでに制約たっぷりなわけで、書体はともあれ行き先には限度がある。 文字であることの縛りへの信頼と安心感。 縛りの中の無限の自由と開放感。 無論その中に目眩がするほどの無限のバリエーションと可能性がある。 無限の可能性ゆえ、書き手の決断によってのみ作品は完成する。 そして、この世界の脈々と受け継がれてきた何か美しさの塊や強固なフレームである文字というものに触れるのは大きな喜びと言っていい。 それに、少しオカルトめいてしまうのだが、コントローラーである私自身が文字に行き先を教えられ導かれているように感じることが稀でなくあるのである。 当然ながら筆に力をかけているのも、紙面上のイニシアチブを握っているのも、その後その善し悪しを取捨選択しているのも、紛れもなくこの私なのだけれども。 今思うに、お導きに逢ったときの書のことを私は往々にして良しとしている感もある。 お導きは少し置いておくとして、何を目指しているのか、それは〝紙面上、面白みがあること〟と総じて言っていいかもしれない。 書的に主題となるコンセプトが、紙面上にえも言われぬ奇妙で少し気持ちが悪い、居心地が悪すぎずも少し悪く、アンバランスの中の絶妙なバランスを保っていて、出来れば飽きのこないもの。 ひとつの作品を書くのにお導きにも逢えず何十枚も紙を消費してどうにもならないときは、一旦振り出しに戻るような気持ちでやけくそに書くこともある。 それが功を奏することも少なくない。 一応の完成物は壁に一定期間貼っておくのだが、良いものは長持ちするのは確かなことだ。 自分が3ヶ月以上鑑賞に耐えうるものを書けるのも30回に1回くらいなものだろうか。 書作について考えることは日々しているが、桜木町で行われているある書展に刺激を受けたこともある。 こうして文章を書いていると、私は考え事の少ない人のようには思われないのだが、私は自分自身がとても考える力が足りないと思っている。 分かっていることを描写するのは自分としてさほど苦にならないのだが、何か分からないことについて答えらしきものを導き出すことが本当に苦手である。 苦手というか、面倒で思考が続かない。 何かが分かる、という現象が身体に落ちることはとてつもなく好きなくせして、できれば苦労をせずに様々なことが体感として分かるようになると良いと、恐ろしく傲慢に考えているような節がある。 ただ、それではこの先が危ういような感じがしている。 最近とある書作以外の考え事をしていて、煮詰まったというか例のごとく思考体力が序盤で切れてしまって課題だけが残ってもやもやとしていたのだが、ある友人が「解決すべき課題意識がある場合は、考えるという行為は言語だけでなくて身体全身で考えてくれるから焦らず待てば良い」と教えてくれた。 考え事の答えが出ないとき、そのもどかしさに耐えられなくて、えいやと適当な答えを出して突っ込むのが私のやりがちなことなのだが、私は少しその考え事を意図的に寝かせることにした。 意図的に寝かせると言っても、課題意識は目の前にあるわけなので何となくその後も薄々とは考えてしまっていた。 でもそれは明文化できない苦しさや思考しなければならないという圧迫を持ってではなく、考え事をポケットに携えていつでも突っ込んだ手で転がしているような感じだった。 不思議なことなのだが、数日経ただけでその考え事は、答えを見せてはいないが明らかに違った景色を見せてきた。 そんなこともあるものなのだなと、私はこの体感について少し感動を覚えた。 考え事を放っておくという考え方。 こんな体感があると、私はまた考えなくなりそうなのだが、これはあくまで解決すべき課題が明示されているときのみに有効だろう。 課題そのものが言語化できていないときは、にっちもさっちもいかない。 となると、課題が言語で認識できたときに本当は既にそれは解決しているといっても良いのかもしれない。 何らかの見たくない言いたくない思いたくない隠したい、自分にとって不都合があるだけなのかもしれない。 不都合が何であるのかを発露するということが難儀である、だけなのかもしれない。
0 コメント
あなたのコメントは承認後に投稿されます。
返信を残す |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
|