レッスンに行ったら、みかんをふたつ、いただいた。
和歌山のブランドみかん「有田みかん」らしい。 家にはけいこが送ってくれた「蒲郡みかん」があるけれど、ありがたく頂戴した。 私は「有田みかん」を知らなかった。 みかんの産地は愛媛、和歌山、静岡とよく言われる。 愛知の「蒲郡みかん」は、近くの静岡「三ヶ日みかん」よりも断然に知名度が低い。 しかし産物の少ないあの地域の誇れる産物のひとつと言えるほど、「蒲郡みかん」はおいしい。 そして、「蒲郡みかん」には勝てまいと「有田みかん」を食べてみると、なんと甘いことか。 海外で飲む冷えていない搾りたて100%の濃厚なオレンジジュースの味がした。 おお、これは・・・という感じがした。 しかし、「蒲郡みかん」の良さはその脳を射抜く甘味ではなくて、みかんそのものの味の濃さ、だと思う。 糖というよりは、みかんがぎゅっとしている、のだ。 やっぱり一番は「蒲郡みかん」と私が思いたいのは、乏しくも間違いなく存在する私の故郷愛なのだろうか。 私のブログを通年読んでくださっていた方にHPができました、とメールを送ったら、「久しぶりだったのでしょう、ブログの言葉があふれていますね」と言われた。 確かにそうなのかもしれない。 昨日のブログを読み返してみても、内容はさておき、ドシャーとしている。 私は現実にとてもとても言葉数が多いし、よく喋る。 まだ何か言いたいのかと、飽きれもするけれど、どうやら喋りたいらしい。 ブログはSNSと違って孤独なものだけれど、独り言とは違う。 このあたりは、前にもたくさん書いた気がする。 結局のところ、読み手を想像して書いているし、一方向的な度合いの高いれっきとしたコミュニケーションであると思う。 一方で自分が生来の口下手であるとも実は思っている。 私がお喋りなのは、ただただ喋りたい欲求と防御の意味もあるのだろうと思うと、自分でもよく分かってないけれど自覚はある。 何でもない何かを言葉にしたくて、しかし何でもなくない何かが言葉にできない。 言葉は単なる記号にすぎないけれど、その記号にそれぞれがそれぞれの意味を持たせ、それぞれの概念に則ってコミュニケーションをする。 通信、という言葉があるが、「通じたと信じること」であるといったのは、『カイジ』の福本さんだ。 「通じたと信じること」抜きには、私たちは誰もがコミュニケーションをすることができない。 音楽で会話ができる、という世界観を、私はつい最近まで存在自体も認めていなかった。 今は、何となく、本当に何となく、分かるような気がしている。 いいなあ、うらやましいなあ、と心から思う。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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