久しぶりに宛名書きのお仕事をいただいて細筆を取る。
宛名書きの仕事というのは、ちゃんと、きちんと、しなければいけない、ので大変な一方で、ひとたび乗ってしまえばたまらなく楽しい仕事である。 人の名前や会社名や部署名や肩書きや名刺のデザインなど、字だけでなくて、私にとっては嬉々としてしまうような要素がいっぱい詰まっている。 最近は細い筆を持つのはもっぱら筆ペンになってしまっているので、墨をつけて細筆で書くのはまた改めて慣れが必要になる。 よくレッスンのときに「まずは筆ペンと紙と仲良くなってくださいね」という話をするのだけれど、穂先の長さや筆の太さ、紙の質、インクの出方や墨の濃さ、あらゆることに自分をチューニングしなければならない。 このくらいの感じで左に払うとこのくらいの長さが出るのね、とか、墨はこのくらいつけると全体のメリハリにちょうど良く作用するのね、とか。 ついでに、今回は主に横書きの宛名書きをやっているけれど、やっぱり字は縦書きのために作られているというか、書としては縦の方が魅せやすいよなあと思ったり。 筆ペンはやっぱり毛が動物でないだけあって機械的なんだなあとか、筆において大切なのはやっぱり命毛なんだよなあとかも思ったり。 やっているうちにだんだんと書く字や空間バランス、私の心までも「宛名書きチューニング」に合ってきて上手く書けるようになってくる。 さらに良いときは悦に入ることさえできる。 一種のランナーズハイみたいなものだ。 こういうことをやっていると、結構どんなときも、電車に乗っていても漫画を読んでいても映画を観ていても、眠くなってしまう私が全然眠くならない。 さらに最中にいればあまりお腹も空かない。 用があったので朝8時前に起きて、レッスンをしつつプールにも行きつつ、その日寝たのは翌日の午前2時だった。 1日でトータル8時間、書き続けて、書き続けて、単なる筋肉痛でない痛みに身体が酷く軋んでいる。 別に起きている時間や頑張っている時間など一般的に大したことはないのだろうけれど、やりたいことがあっても怠惰でよく寝る私にとってはそんなに夢中になれる時間というのは心にとって、というか身体にとっても、とても嬉しいのである。 そんなことなら身体はもう軋みに行きたいわけだ。 もちろん毎日延々に、というのは困るけれども。 私は何か決まったゴールがあることへ向かうのは、結構な根性を見せることができるのだと思う。 一方でゴールがないことに向かって行くのは、下手でありひよるのであり怯むのである。 生きていることで、ゴールなんてないことの方が断然に多いのだけれども。 その翌日、書道のレッスンで「豪快」「豪傑」「豪放磊落」というような漢字を扱っていた。 身体の軋みは置いておいたとしても、どうにも「宛名書きチューニング」が続いていて、「豪放磊落」に書くことができない。 あまりにそこに合わせてしまっていたために、それから解かれるのも少々時間を要するのかもしれない。 宛名書き中、iPhoneに入っている音楽を総シャッフルして聴いていた。 手当たり次第漁りながら集めた音楽たちで真剣に聴いていないアルバムもとても数多く入っているけれど、ひとりイントロ当てクイズは案外当てることができた。 曲名についてはほとんど分からないけれど。 手触り、風合い、テクスチャー、というのは音楽でも書でも、それはたとえ消そうと思ってもなかなか消えないものである。 詞にもあるけれど、音で当てることができるのは創り手のそれらを感じ取っているからだ。 臨書も、己を消したいと思ってもなかなか叶わない。 総シャッフルしているにも関わらず、岡村靖幸とゆらゆら帝国と矢野顕子とロバートジョンソンが多かった気がするのは、私がそれに反応していただけのことか、本当に偏っていたのか。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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