20日が締め切りの東京書作展の作品づくりに勤しむ。
去年良い賞をいただいたので、今年は一般審査の部からは外れるので幾分気が楽だ。 賞を獲得することに全力を注ぐわけではないけれど、コンクールに出品するなら成績は良い方が良いに決まっている。 比較的大きな作品を書くのは結構久しぶりなのだけれど、なんだかちょっと、上手くなったかしら、なんて思った。 小さなものでも、毎日何かしら形にするということをかれこれ9カ月ほど続けているのだが、少しずつ結実しているだろうか。 まあ、展覧会場で見たらそこにいる猛者たちの線を見て、あーーー、と打ちのめされるのだろうけれど。 大きな作品には大きな作品の、楽しみがある。 大きな字には大きな字の、小さな字には小さな字の、楽しみがある。 大きな字には大きな字の、小さな字には小さな字の、疲れがある。 大字書を極められたらいいのかもしれないし、米粒に字を書くような小さな小さな書を極められたらいいのかもしれない。 でも、私はそれをできる気がしない、定まれる気がしない。 決め切った形を、決め切った思いを、突っ切ることが何だか本当に出来なくなってしまったように思う。 それだけ私の見聞が広まったのかもしれないし、多々方々に私が散ってしまったのかもしれない。 私は何か描きたい確固たるモチーフが存在するのだろうか。 そんなものは無い、とすることで、私は何か安心してしまっているような気がするし、移ろいゆく全てのものの中で流されてしまっているようにも思う。 言いたいことなど特に無い、特別な主張も無い、ということが完全に負けないことへの盾になってはいないだろうかとも思う。 がしかし、言いたいこと、と言語の枠を決めるのであれば、やっぱりそんなに言いたいことなんて無いような気がしてしまう。 ただ、言語で言えないような言いたいこと、というのははあるのかもしれないとは思っている。 それに、言語や論理よりも優れた伝達方法については、必ずあると思う。 それが俳句や短歌のような言語を扱うものであっても、言語や論理を越えるものが、おそらくある。 しかしながら、私たちは他者に自分の何かが伝達したか否かを完全に確かめる術を誰も持ってはいない。 「大切なことには時間がかかる」といつかの友人が言っていた。 誰もが孤独であり、孤独を愉しむことができる人間でありたいと思いながら、やはり広義においてコミュニケーションということを基軸に置かざるを得ないのは、私だけの性ではないだろう。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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