「天」を最初から最後まで読んだ。
タイトルは「天」だけれど、明らかに「アカギ」が主人公の話。 麻雀はほとんど分からないから、その部分は雰囲気だけを読む。 麻雀が分かっている人なら分からないで読むより3倍くらい面白いだろうと思う。 以前、最後の3巻だけを読んでいてひどく心を打たれていたのだけれど、今回も今回で、本当に泣いてしまうくらいだったというか、軽く泣いてしまった。 高島屋のベンチで。 麻雀のルールが何にも分からなくても、勝負事、博打、であることさえ分かっていれば、この漫画は問題なく読める。 天が自殺間際のアカギに言い放つ言葉と、それを真っ当に受け止めてアカギが答える言葉。 アカギは天に救われたありがとうと言い、しかしそれでも意志の通りに自殺する。 今思い出すだけでもぎゅうっとなる。 「カイジ」も「銀と金」も「アカギ」もそうだけれど、福本さんがギャンブル以外に描こうとしている内容に、私はどうにもこうにも心を引っ掴まれてしまう。 「天」の最後の3巻はどの頁を開いても食い入ってしまうほどだ。 もちろん独特な言い回しや簡略的な絵の感じなども含めて好きだし、とても好意的に笑わせてもらったりもするけれど、私が解釈するところの“ロックンロールのあり方”のようなことが福本さんの漫画には存在していて、もう全然笑えないどころか泣かされてしまう。 このことは、多くを語りたいような、全然語りたくないような、誰かと積極的に共有したいような、積極的にはしたくないような、そんな気持ちになる。 ついでに、「真・異種格闘大戦」という漫画もアプリで読んでいるけれど、こちらもとても面白い。 作者のマニアックな知識がストーリーの中で輝いている。 どれもこれもある一人の人から勧められたものばかりで、その人の引き出しは圧倒的に膨大なのだろうけれど、よくもまあその巨大な引き出しから私の好みを当ててくるなと思う。 しかし未だ「ジョジョの奇妙な冒険」は止まったままである。 いもうとの引っ越しが決まったらしい。 新居のリビングに飾る書が欲しいと言われ、もちろんいいのだけれど、私としては驚きの感を隠せない。 私が自分の部屋のインテリアとして書を飾るのはちょっと・・・と思っているということもそうだけれど、最も驚きなのは、いもうとがリビングの一番目立つところに私の書いたものを飾りたいと思う、という点である。 ふたりの姪の命名書は良くても、リビングのど真ん中に割に大きなサイズで、名もなき書家の、双子の姉の作品を飾りたい、とはどういうことだ。 私の筆致をある程度知っているとしても飾りたいほど好きなのか。 日々の鑑賞に私の作品は長期的に耐えられるのか、気分を圧迫しないだろうか。 いもうと側としてもそんなところに飾ってしまったら、それを外すことは引けるのではないだろうか。 その書が気に入らなくなってしまったとかではなかったとしても、気分を変えたくなってしまったらどうするのか。 いや、それは外せばいいのか。 いや、そもそもそんなに深い意味はないのか。 いもうとは私の仕事を、言わないけれど、応援してくれている感じはする。 私たちふたりにおいて、違う人生を、互いにないものを羨望するでもなく、真っ当に認めている気がしている。 それにしても、結婚祝いやら出産祝いやら、そして引っ越し祝いやら、なんだかいもうとにあげてばかりな気がする。 この後はまた出産祝いとか入学祝いとか成人祝いとかあるのだろう。 社会的お祝いの贈答は、企業を介しての人付き合い以外、多くの場合、家庭を築くこと、あるいは家庭を発展させることを主として発生する。 ひとり暮らしの人が何かしら本人的に良い意味で引っ越したり、たとえ新居を購入しても、そうそう引っ越し祝いなどもらえるものではない。 しかし例えば、会社を辞めて独立して店舗を構えました!ということは、新たな人生の始まりとして、ともすれば結婚くらいめでたいことなのではないだろうか。 しかしこういう場合、同業者や取引先からのお祝いはあっても、家族からはあまり一般的ではないように思う。 どちらにおいても、成功するかもしれないし失敗するかもしれない危うさを孕んではいて、大きな何かを背負いつつ前進的に生きていく大きな決断には変わりはないと思うのだけども。 例えば、私が今結婚して子どもを産んだら、きっと家族は盲目的に安心もするだろうしお祝いをくれるだろうけれど、私はそれについて嬉しいだろうか。 結婚自体は良いものであろうということや、良くあって欲しいと願いつつ、別に自らがんばってすることの類ではないと思うので、言わば「こういう時にはお祝いをあげるものだ」という杓子定規なお祝いならば最上級の喜びは得ないだろうと思う。 個人が個人としてがんばったことに、個人が個人として自発的にお祝いをあげるのだとすれば、お祝いされた側は、少なくとも私は、とっても嬉しいよなあと思うわけである。 またがんばったとかそういうことではなくても、「あなたが好きそうだと思ったから。喜んでくれるといいな」という気持ちで何かをあげたりもらったりするのはただただ嬉しいではないか。 そういう私はそういうことをすることがひどく苦手であるという、何とも現金な面のでかい奴だけど。 いささか脱線したが、ちなみに、結婚を悪いとも、結婚祝いを悪いとも全然言ってはいない。 今回の件については、いもうとに大した深い意図がなくとも、「インテリアに特段こだわりはないのでお金をかけずに何か飾るものが欲しい」という理由であったとしても、ほんのり嬉しいのである。 あの日、桜新町の蚤の市で買ったとてもとてもお気に入りの平皿が手から滑り落ちて割れてしまった。 とっても大好きで、とってもよく使っていて、とっても馴染んでいた。 フランスかベルギーかその辺りの、確か割と古いものだった。 もうない。 あれはもうない。 このことで、涙も出ないし、眠れないこともないだろうけれど、1週間くらいはあのお皿を思い出して嘆きそうな気がする。 マスクをして出かけると皮膚が擦れて肌が荒れる。 ジレンマ。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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