ちょっと都心に背を向けてお出かけして、東京に帰ってくるときはいつも、なんだかほっとした気分になる。
平地や緑の面積が減ってきて、家々の密集度が増してきて、ビルが高くなってきて、看板や広告の文字が溢れてきて。 それは実家に帰ったときの横浜から品川くらいまでの新幹線の中から見える景色で、東京駅に降り立ったときは、あ~東京っ、とひとり身悶えるくらいの気分になる。 そんな感じは例えば茨城方面からの帰り道、都心に向かう首都高から望む広々した荒川の河川敷、そしてハイウェイ越しに見える大ビル群に向かっていても思う。 成田や羽田から乗る電車の中でももちろん思う。 もっと言えば、お台場などの海浜地帯から帰ってくるゆりかもめやモノレールに乗っていても思う。 一方で、その安堵感をもたらす東京も、未だアトラクションのように思っている節もある。 特に東京への入り口付近はアトラクション感が強い。 電車や車の中から、巨大なビルの数え切れぬ窓の向こうや、ショッピングモールに架かる連絡通路や、そんなよくできた巨大な街の中にいる豆粒みたいな人々がてくてく動いているのを見学する。 電車や車の中にいる私ももれず豆粒で、時々乗り物から降りててくてく歩いて買い物したり食事をしたりする。 アトラクションのように思うということは現実感に乏しいとも言えて、もしかすると日常と思っていることにも私は現実感に乏しいのかもしれないし、東京の入り口辺りでそれが強くなるのは、単に存在する何かゲームソフトのイメージによって作られているものなのかもしれない。 旅行は楽しいし知らないところには行ってみたいけれど、どこに行くにも、いつだって、ちょっとは心許ない。 私のホメオスタシスは、わくわくの表面を薄い膜で覆うように機能しているのかもしれない。 私は些細な、あるいは壮大な冒険を、好んでいるのか、好んでいないのか。 生来の怖がりであることは、寸分疑うところなくそうなのだろう。 私は常に揺らいでいる自分の身の置き場に困っても、ゲームの主人公であるべきである。 というよりも、そもそもそのゲームから下りることなどできないし、始めっから主人公に他ならない。 首都高のカーチェイスを傍観しているのだとしたら、その傍観している私の存在は一体何であるというのか。 私はどこかで、傍観者は死なない、と思っている感じがするけれど、それはそもそも甚だ勘違いだ。 車は現実には運転できないし、それをしたいということではないけれど。 偕楽園に行く。 小さな湖があって、そこに何羽かの本物の白鳥が泳いでいて、スワンボートも何隻か。 ダークカーキの色をした水面が、硬めにホイップした生クリームの角がとてもたくさん立っているように奇妙に荒く波立っていた。 白鳥は全員水面に浮かんで優雅にいてほしいのに、2羽だけ陸に上がってのしのし、ずかずかと砂の上を歩いていた。 目つきと出で立ちがヤンキーみたいで学ランを着せたいような風貌の白鳥2羽。 私がしゃがんでカメラを向けると、のしのし、ずかずかと近づいてきた。 恐怖感すらあって、すっかり白鳥のイメージが変わってしまった。
0 コメント
あなたのコメントは承認後に投稿されます。
返信を残す |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
|