子育ての大変さというのは、特別にはすることがなくて暇と言えば暇なのに生産的なことは何もできない、それが毎日毎日休みなく続く、というところだなあとつくづく思う。
忙しい忙しいというイメージのあった新生児乳児期の子育てだが、息子の性格もあってか今のところ劇的に忙しいというふうには感じていない。 しかしやっぱり、それでも何にもできない。 こんこんと寝ている間以外は。 おむつ替えも授乳も沐浴も寝かしつけも、その他食事の準備や掃除洗濯などの日常家事など色々やっているのに、やはり、何にもできない、していない、と感じるのである。 ちょこまかと子どもの相手や世話をしていたり、細切れの家事をしていたりするだけで夜は更けてしまい、輪郭のぼんやりした意志なきことばかりをしているために何をやっていたのかさえ記憶がおぼろげになる。 逆に仕事などで物凄くタイトに細々と様々なタスクをこなしていても似たようなおぼろ状態になるのかもしれないと思うが。 0歳児の相手というのは基本的に緩慢で手持無沙汰で暇の多いものである。 授乳中は特別にすることと言えば息子を少し支えているくらいなものだし、あやすのもずっといないいないばあとか歌を歌ったりとかをしているわけではないので、気持ち的には何か他のことをしたいと思ってしまう。 しかし息子の体勢や要求はころころと刻々と変わっていくので、例えば筆を持った瞬間に筆を離さねばならない状態を余儀なくされる。 筆を持てる瞬間は案外たくさんあるのに、一枚たりともそれなりの完成地点を見ることが出来ないのである。 また寝ていてさえも、いつ起きるか分からないという時限爆弾のようなものを抱え、集中たる集中は滅多にできない。 ごはんを準備すること食べること、掃除洗濯をすること、ライトなテレビドラマを観ること、ブログを書くこと、これらは流れ作業の中で何となくできるのだが、生産性や達成感を感じられるようにはできない。 これらの日常的なことを生産性のあるように、もっと達成感を持てるような事柄に引き上げると口に出して言うことは簡単である。 料理に凝ってみても良い、念入りに床拭き窓拭きをしても良い、テレビドラマの感想をSNSで議論してみても良い。 しかし、日常ごとの質を高めるべくチャレンジしたところで、それらを達成することが極めて難しいので、現実的には不可能なのである。 というか、それならそもそものやりたいことも出来ている。 つまり、当然ながら、また思いの外、自分が生産的だと思えるようなことをするのはある程度まとまった時間と落ち着いた精神が必要なのである。 ブログは息子が寝ている時間を狙って数日に渡って書いている。 毎日の書は夫が帰宅してから少しだけ時間をとって書いている。 まあ、それだけでも有り難いといえばそうなのだが。 子育ては最大級に生産的でクリエイティブだ!などと叫んでみても、日常の持て余し感は変わらないのである。 一緒にできて私もやりたいことといえば散歩である。 これもまたベビーカーを押しながら授乳室巡りをするという制約たっぷりなものだが、歩数も一日一万歩ほどに戻ってきた。 9300歩で夜を迎えた日には残り700歩を家の中を歩き回ってみたりもする。 比較的おとなしめの息子も主張ははっきりしてきたし、また保育園について逡巡する。 可愛い!一緒にいたい!うるさい!自分のことしたい!可愛い!一緒にいたい!うるさい!自分のことしたい!、そんなせめぎ合いをする毎日。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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