久しぶりにマンションの屋上に上がってみる。
私が選ぶとき抜け感を最重要視したこのマンションは、私の部屋からの景色も良いけれど、屋上はさらに抜けていて、都会の風景と都会の大空が広がっている。 古い建物の特徴らしいが、屋上に洗濯物を干す鉄棒のようなものがずらりと並んでいるのも圧巻である。 例えば文京シビックセンターの上からの夜景や都庁の展望台からの夜景も、きらきらのビーズをわっとひっくり返したみたいできれいだけれど、同じような高さのビルがそびえる中途半端な位置からの夜景も良いものだ。 眺めるべき星空はないけれど、いつだってどこだってある空の広さを感じるには十分である。 幼い頃、実家のベランダから頸が痛くなるまでよく星空を眺めていた。 星座などにはあまり興味がなかったが、ただ星を眺めるのが好きだった。 このまま重力がなくなって空に放り出されたいと、ロマンチックな意味ではなく思っていた。 死にたいとか明確なことではなかったのだけれど、自分が生きているという実感は著しく乏しかったのだろうと思う。 空は雄大で全て覆い包んでくれるような、それでいて解放させてくれるようなものの象徴的存在ではあるけれど、そしてそれは一時においては事実であることもあるとは思うが、結局は何も跳ね返りの無いただの"空"である。 空を見上げればいつだって悩みが吹き飛んで、空を見上げればいつだって自分がちっぽけであることを確認できて、空を見上げればいつだって宇宙と繋がれる、そんなことはあるはずがないのだが、多少なりとも空に自分の安心を盲目的に託していたのかもしれないなと思う。 今も空は好きだけれど、全幅の信頼をおけるものでは全然ない。 私が空に何かしら作用することはほぼできないと言っていいと思うけれど、空があって私があって、空から私に何らかの作用がもたらされることを私が認識する、それでいいではないか、と思うようになった。 無理やり空を見上げるのではなく、見上げたら空があって、あぁ空だなあなんて思えたらそれで良い。 梅雨が明けたらしいではないか。 どうりで夏らしい強めの青空が広がっているわけだ。 毎年の展覧会が会期中なのだが、訳があって今回は誰にも告知することもなく、私でさえも会場に出向いていない。 書いた正信偈はこの目で見ておきたい気もするが。 その訳とは、私が今後団体への所属をどうしていこうかと思い始めてしまったからである。 私がこのように創作ができるのは間違いなく現所属団体のおかげであり、とてもとても感謝している。 それは変わらない。 けれども、もう離脱しても良いのかもしれない理由を自分で並べ立てることができてしまっているのである。 8日の日曜日まで国立新美術館で会期中であることを、こっそりとここに書いてみる。 私も行けたら行きたい。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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