俄かに歩くのにはまっている。
サウナに引き続き、私は何かにはまりやすい体質なのかもしれない。 とはいえ、何のことはない、歩くこと、に今さら、はまっているだけだ。 歩くのにはまってまだ日が浅すぎる、10日間ほどなのでどうなるかは分からないのだが、この10日ほど9日は毎日1時間以上連続して歩いている。 例えば池袋から有楽町、例えば下北沢から渋谷、例えば新宿から六本木、例えば夜道を心のゆくままに。 わざわざ歩くために遠い駅で降車して帰ったりもしている。 サウナに行きたい衝動が、歩きたい衝動の方に流れているほどである。 てくてくてくてく、東京の街を歩く。 かつて私の移動方法は基本が自転車であったのだが、いつしかチェーンが絡まって動かなくなってしまって直すのが面倒で乗らなくなってしまった。 あの頃自転車にはまったのは、自転車という乗り物に乗っかって座っていられることと、かなりの距離もかなりの短時間で移動できることを知ったことと、風を切るのがあまりに心地よかったからだろう。 要は色んな意味で「楽」だったのだと思う。 歩くのはそういう意味では「楽」ではない。 ただし、圧倒的に「気楽」なのである。 自転車は、自動車などに比べて極めて等身大の乗り物であると思うが、やはり自分とは切り離された主に大きな鉄の塊である。 東京の街ではその主に大きな鉄の塊を置いておくところさえままならない。 もちろん主に大きな鉄の塊なのだから、重い、そうすると厄介なのは坂道である。 我が身だけでも坂道は重たいのに、それを引き連れて行かなければならない。 だから上り坂をなるべく避けた道を通っていたこともあるが、上り坂を避けることは下り坂を避けることとほとんど同じことなので、意外に起伏に富んだ東京の街を縦横無尽に進むことなどは全くできたものではない。 もうひとつ、遠くまで来て来たは良いが帰路の体力が持ちそうにないとき、そこに愛車を置いていくわけにも行かない。 つまり往復の体力気力を計算しておかねばならない。 これらのことが歩くということにおいては全てクリアーであり気楽なのである。 おまけとしては、自転車に乗っているとスピードが速いので景色や建物を確認することが難しいのだが、歩いていれば荘厳な国会議事堂や最高裁判所やかわいいマンションや肝の冷える崖などを見つけることも美味しそうなパン屋やがらくたのような食器屋に入ることだってできる。 国会議事堂なんてほぼ駅名でしか把握していないのだが、それが眼前に今聳え立っているのを見ると国会議事堂が実際のものとして息づいていることを気付かされる。 しかし皇居周りのあの辺りは巨大すぎる四角い建物が多すぎてやや眩暈もするものだが。 ちなみに、私は地図がとても苦手であるが、グーグルマップ様さえあればあまり迷うこともない。 グーグルマップ様の完成度は日に日に上がっているなあと思う。 これまでまさか歩いて行くなんて発想を持たずに電車を乗り継いで来ていた場所に、時間をかけてでも身ひとつで歩を進めて辿り着けるということは少なくない達成感がある。 グーグルマップ上の歩いてきた線を眺めて、何か誰かの力を借りずにこんなにも私の身体のみで進むことが出来るのかとやや普遍的な意味を上乗せさせながら感心する、褒めてやりたい。 また、息も弾んで軽いサウナ後の血流良好のぼーっとした感じが訪れたりもする。 どうして自分が俄かに歩くのにはまっているのが、こうして書き連ねる理由以外の衝動はここにあるのかもしれない。 しかしながら、この歩くことの理由が、あと少し、言葉で言い尽くせていない肝心な理由があるように思っている。 それは一体なんなのだろうか。 まあ今後私はいつか自転車を直すかもしれないし新調するかもしれないし、またその心地よさを再発見することもあるだろうとは思うけれども。 さて国立新美術館の東山魁夷展まで歩いて行ってこようか。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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