小松菜とシーチキンを炒め煮にして、冷凍してあったごはんを解凍して食べる。
今回でいつかに買ったお米5キロがようやく終わったけれど、一体いつ買ったお米だったのだろう。 新米だったような気がするけれど、既にれっきとした古米になっている。 さすがにかなり味が落ちている。 「マツコの知らない世界」をなんとなく観ていて、美味い店特集をやっている。 私はあまりこういう食番組にあまり惹かれることがない。 実際にその店に食べに行くこともない。 料理番組は好きだけれど。 やっぱりひとりでごはんについてわくわく森の中に入っていくことはできない。 古米と小松菜とシーチキンの炒め煮で十分なのである。 少なくとも多くの日は。 淋しいとも貧しいとも侘しいとも思わない、というのが強がりで言っているわけではないことをどうやって正しく説明できようか。 本当に、とか、間違いなく、とか強調用語を入れたところで余計に嘘っぽくなってしまう。 このような類の話は日常的にままあって、少しばかり悩ましいと思っている。 誰かに何かを「伝える」ということがものすごく困難であるということを私が自覚したのは、そんなに昔のことではない。 ロックンロールを知って、それからまたしばらく経ってからだ。 そもそも、伝え手の言うことが受け手に“正しく”「伝わった」ということは原理的に言ってない。 それは我々は皆別々の人間であり、別々の知覚認識をしているからだ。 このことについて考えると、心臓に冷たい水を注がれたようにヒッとなる。 これは孤独そのものなのだろう。 それでも伝えることを止めなかったり、伝えることに創意工夫を凝らしたり、そのために同じ時間を共有したり、それが本当に伝わった気になったり、本当に伝えられた気になったり、そんなことは美しいことだなと思う。 一生曖昧模糊としているだろうけれど、そんな捉えどころのないこの世界は、私の遊び場として何だか楽しい気がする。 最近ブログに載せている書のほとんどは、Facebookの書グループに提出しているものだ。 いつも同じではつまらないと大きく書いたり小さく書いたり、書体を変えてみたり、丸を書いてみたり、金墨汁を使ってみたり。 発想は乏しいけれど、毎日苦心しながら存分に楽しませていただいている。 上から二番目の「夏端月」というのは、機会があって画像加工に長けている方におめかしをしてもらった。 何だかすごくカッコイイではないか。 いいねやらコメントやらをいただくこともあって、「センスがありますね」なんて言われたりして。 もちろん嬉しいけれど、身の縮む思いもする。 これは私が“ヘンタイ”への憧れと尊敬と恐縮の気持ちを拭えないからである。 私なんか、全然“ヘンタイ”なんかではない。 私が憧れる字というのは、「その人がその時にしかできない、気負ってなくて自然で、ともすれば気持ち悪いくらいのアンバランスをモノにしている字」である。 アンバランスを目指しているなんて可笑しい感じもするけれど、結構本気でアンバランスを目指している節がある。 と言っても、アンバランスのち崩壊、ではなくて、アンバランス且つ絶妙なバランス、である。 私はあまり古典の臨書をしないのだけれど、古典をないがしろにしているわけでは毛頭ない。 古典に根差した字というのも当然ながら素晴らしい。 というかとても尊敬するし、憧れてもいる。 古典を死ぬほどやらないと威厳のある線が引けるようにならない、というのも何となく正しいような気がしているので、もっと臨書しなければなあという思いもある。 がしかし、臨書は書においての血肉、骨格になるものだろうけれど、それをやったからと言って創作物が光ることが担保されるわけではないとも思う。 それに、字は歴史であり、誰のものでもないし、みんなものである。 つべこべ言わずやれということだけだけれども。 語弊を恐れず言えば、もっと気持ち悪くなりたい。
0 コメント
あなたのコメントは承認後に投稿されます。
返信を残す |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
|