2か月に一度の句会があった。
いつもは事前に作った6,7個を、その反応をしてくださるであろう人に向けて送って、評価を聞いて最終的にどの3つを投句するかの参考にするのだけれど、今回は句作にかける時間が短くて4つしかできなかった。 しかも兼題は「味」だったので、出す句に迷いはなく、誰かの意見を求めるまでもなかった。 灼岩に想像の目玉焼きを焼け ※灼岩(やけいわ) ただ凛とただ素麺を啜るなり 西日指す怒りの後味伽藍堂 日々を越え夏雲奇峰を渡るなり 結果、灼岩に~の句は2番手という高評価を得られた。 確かに私もこの句ができたとき、「これはいいのができた」と思った。 字余りでも句またぎでも、これなら効果的と言えるだろう。 私は自分の句について、自解はあまりしない、というか、正直に言ってあまりない。 最近のものは特にそうである。 「あのイメージを描こう」ということや「季語のこれを使おう」というところから、紙に言葉を描き出していって、連想やら繋ぎ合わせやらしているうちに当初の予定と全然違う句ができることも多い。 灼岩に~の句は、先日ものすごく、身の危険を感じるほどに暑かったときに、遮るものがないアスファルトの駐車場にいて、私はそんな夏の灼熱さは嫌いではないな、と意識を少しだけ朦朧とさせながら思ったところから飛んで来ている。 本当は「外に出た瞬間に危険なほどの夏の暑さ」を巧く詠みたかったのだけれど、アスファルトから岩になって目玉焼きになってしまったのだ。 私の俳句の作り方は、私のごった煮の作り方に似ている。 書もそうかもしれない。 無難なありものをその場で適当に混ぜ合わせて、なんとなく方向性を見つけていって、それなりの形に仕立てる。 最初にはこれといった完全なイメージや強い思いがなく、できたものも輪郭を失いがちである。 しかしフィクションであり、ファンタジーで良いのだと思う、句さえ良ければ。 多くの人の共感するような現実の一部を巧みに切り取ることは俳句の一つの醍醐味であるように思うけれど、そもそも俳句は一応季語を入れるというルールがあるので、共有感はいっそ季語に委ねてしまえばいいとも思う。 この後半部分については「あかぼし俳句帖」で言っていた。 そのことそのものに対する敬意は失いたくない。 何にしても自発的な筋トレはそのことそのものに対する敬意の表れだ。 最近、机上にて筆ペンで遊んでいると、豆書、数センチの小さな書、「ポケット書道」とでも呼ぼうか、を書くのが楽しくて、俳句もそれで書く。 小さな額に入れたら売れそう、なんて友人が言ってくれて、出来がよければ銭湯に置いてくれるなんて言ってくれる方もいて、実際にいろいろ額を仕入れてきた。 ちょうど生徒さんのお子さまが生まれて、一緒にあれこれ名前を考えていた仲だったので、4センチ四方ほどの命名書を書いて小さな額に入れて郵送。 喜んでくれたら嬉しい。 2年ほど前にデビューするロックバンドのミュージックビデオの一つに出演させていただいたことがあるのだけれど、第二弾が動き始めるということでまたお話をいただいた。 今回は、顔は要らないので書のみで、しかしアルバム全曲を、とのこと。 ありがたい意味で、最近の私はてんてこまいである。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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