私が字について時系列的に何を思ってきたのか、そういえば断片的に書いたことはあるかもしれないが、まとめてはない気がするので、書いてみたいと思う。
とある人がここまでの書人生の振り返りをしていたので、私もしてみたくなった。 誰から頼まれているわけではないけれども。 ちなみに私の家系では書をやっている人は叔母しかおらず、叔母が書をやっている影響が私にあるかと言われると、おそらくほとんど無い。 なので社会学的に言うところの文化的資本の再生産(医者の子は医者になる確率が高い、というような)というような継承は皆無であると考えられる。 父の字はあまり知らないし、母の字は雑である印象である。 一緒に暮らしていた祖父母は、ボールペンをしっかり持って宅配便の複写伝票のようなのものによく写りそうな起筆しっかり筆圧強めの字を書いていた気がする。 改めて今思い返すに、字について何らかの最も古い記憶は、小学校一年生のときのことである。 小学校で初めて字が書けるようになったのか、保育園の時代から書けていたのかさっぱり覚えていない。 ただ小学校1年生のときの加藤先生という担任の先生の字がとても上手だったことを覚えている。 先生というのは皆字が上手であるという、多くの人が持っているかもしれないイメージを私も持っている。 クラスメイトの采くんという男の子が、生活態度はハチャメチャなのにとても字が上手くいつも金賞を獲っていた。 彼は4Bの濃い鉛筆で真っ黒になりながら漢字ノートを書いていた気がする。 ヤスエちゃんやアヤミちゃんも字が上手で、「何か違う子」と思っていた。 確か、小学校二年生で私は友達が行っている書道教室に通い始めた。 海辺にある今で言う古民家のような壊れそうな古い建物の二階、火曜日と土曜日、いつ行っても良い仕組みであったと思う。 学年問わず常に10数人程がいて、入れ替わり立ち替わり空いている席に座って書く。 先生は40台くらいの先生で、艶やかな服を着ていたおばちゃんだった。 習字・そろばん・ピアノは、当時の習い事の鉄板であった。 その一環として私は何となく書道教室に通っていた。 「よくできました」「もうすこしです」というシールを集めて、シールが溜まるとお菓子やおもちゃに交換することができた。 覚えていないだけかもしれないが、字の具体的直接的な指導を受けたことはあまりないような気がする。 級とかあった気もするがさほど真面目にやることもなく、学校の競書会などではクラスで銀賞や銅賞という成績だった。 小学4年生の頃、書写の先生がお休みで、担任の先生が代わりに書写の授業をしたことがあった。 専門ではないからそんなに上手くないだろうと思ったら、え!と思うほどに上手かった。 そうだったのか、とひどく感心し見る目が変わったことをよく覚えている。 書道教室は6年生で辞め、そのまま中学生になった。 中学生では所謂「可愛い文字」というのにとてもとても興味があった。 手紙を書くことも好きだったので、いかに可愛く書けるかに執心していた。 特にタエちゃんという子の字が憧れで、線の長いところ短いところなどよく観察して分析をしていた。 おかげで今でもどうすると可愛く見えるのか、可愛い字というのはどういうものなのかが粗方説明できるし、それを書くこともできる。 おそらく中学生の時だったと思うが、家に来た年賀状を見て、「あけましておめでとう」とその辺にあった広告の裏に筆ペンで書いた。 それが楽しくて筆ペンのインクが出なくなるまで遊んだりしたのだが、それを見た祖母が「これはあんたが書いただかん?この年賀状より上手いねえ」と言ってくれて、「そうなの?!」といい気になった。 そして中学三年のとき、何がきっかけだったかさっぱりわからないのだが、漢字練習帳の漢字をきれいに書くことにはたと目覚めた。 こうするときれいに書ける、あぁきれいだ、いいね、と自分で思いながらどんどん書いた。 特に何か狙ってやったわけではないのだが、普段は何もコメントのない漢字練習帳の宿題に「とてもきれいに書けています」と浅井先生という国語の先生からコメントがあった。 そうでしょう、そうでしょう、と思った。 参考手本があったわけではない、ただ急に、きれいに書くということが分かって楽しくてたまらなかった。 そこからは友達の名前や先生の名前など、とにかく色々と書いていたと思う。 時を経て人に教えるようになって、生徒さんに「先生は初めから字が上手かったんですか」と聞かれることがあるが、その質問からするとある程度イエスになるだろうと思う。 もちろんもっと上手くなるために研鑽を積んだことは間違いないのだが、さほど苦しむことなくある程度一般的に上手いと言われる字は書けたといっていいだろう。 しかし、このような場合はさておき、字は練習によって上達していくことは、これまでの指導経験からしても自信を持って言えるけれども。 受験があるからと中学三年の競書会は硬筆だった。 これまでの毛筆では鳴かず飛ばずな成績だったが、ペン字に目覚めていた私は自信があった。 変な話だが、周りを見渡してもこれならば自分が客観的に上手いと思っていた。 ペンにもこだわって、皆があまり使っていなかった水性のインクが良く出る太め0.7か1を使った。 案の定、私はここで人生初めての金賞を受賞する。 そうでしょう、そうでしょう、と思った。 まあ30~40人クラスの中の一位ということなので、全国総理大臣賞を獲ったとかいうレベルではもう全然ないのだが、それでも一つの自信にはなった。 ただ、このようないくつかの字にまつわる思い出は、その時に「これでひと花咲かせよう」とか「将来習字の先生になりたい」とか「書道をもっと勉強したい」とかいう火付けには全くならなかった。 字に興味を抱きつつも、高校生の選択の授業では書道・音楽・美術の中からほとんど迷わず音楽を選んだし、再び人に習うということもなかった。 数年後に友人に聞いたが、高校の時にも私は「さらさらっと上手い字が書けるようになりたい」ということは言っていたらしいが。 大学生の時も一時的に興味が再燃して、資格を取ってみようと通信テキストを申し込んでこともあったが、一括払いで払ったのに一度も出さずに終わったと記憶している。 賞状書士や筆耕については時々検索していたような気がする。 大学4年生になり、就職活動の際、当時はまだ手書きの履歴書があったので、それをものすごく丁寧に書いたりして、面接官に度々そのことを言われた。 それで就職活動が上手くいったということはなかったが、何とか就職して1年目、同期の友人に「このままだと何にもない人になるよ。アウトプットするような趣味を持った方が良い。」と言われたことに酷く心臓が波打ち、私は趣味を探した。 最初は、当時大好きだったピアスを作りに行ってみた。 面白かったが、買った方が安くて可愛いという結論に一回で達してしまった。 二つ目に行ったのが、書道だった。 「あぁこれだ、これやりたかった。」と、他の書道団体を見比べることなく体験したその日に入学した。 字を書くことが楽しくて、ずっとずっと字を書きたかったのだと、即時合点がいった。 ここから創作の道に行くまでまた激しく紆余曲折するのが。 長くなったし、保育園のお迎え時間なのでここまでにする。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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