時々、自分自身において、パラダイムシフト、と言ってもいいような変化が起こることがある。
その巨大な変化を私は用語的に“ロックンロール”と呼んでいると思う。 それは「変化」ではあるものの、AからBに移行する変化ではない。 Aの中にBがあったことを認識する、思い知らされる、ということだ。 Aというのは、”わたし”という何か。 確か過去に、私は“ロックンロール”を「自分の中の真実をまざまざと見せつけられること」というふうに私の中で翻訳した。 今でもこの訳は案外正しいように思っている。 それはまさにその瞬間まで、もう全然認めたくなかった何か、であり、しかしそのことを認める認めないとかではなくて、あまりに、あまりに、自分の中で納得感のあることなのである。 それは一般的に有益で有用な考え方でないことが多いし、自分自身とて有益で有用であると思えないばかりか、自分自身にとってさえも”きれい”であるとも限らない。 しかし無自覚に何らかの矛盾を抱えているよりはよほど心の風通しが良くなるし、おそらく、私のイメージとしてはこういうことで少しだけ他人へのやさしさのようなものを芽生えるのではないかと思う。 どんなに論理を積み上げたって、理屈をこねくり回したって、分からないときにはどうにも分からないし、分かるときには「分かった」という感覚しかない。 それに、趣味的に論理も好きだし、科学も好きだし、理屈もこねたい。 おそらく小さな変化は毎日起きているのだけれど、私がそんな”ロックンロール”を自覚して認識したのは4年前くらいに「リンダリンダ」を聞いたときであることは多方面に話しているし、前のブログにも何度も書いた。 あの経験は巨大で、最大で、私の考えや生活をまるごと飲み込んだ。 平たく分析的に言えば、最初のそれは「”社会”と”わたし”は当然ながら別のもので、”わたし”は何物でもない個人である」ということを認識した瞬間だったとも言える。 裏を返して言えば、”わたし”は「”社会”と”わたし”が癒着していた」わけだ。 そしてこの癒着において言えば、完全に解かれることは誰にとっても極めて難しいように思う。 世界がひっくり返った、とか、自分がひっくり返った、ように感じたりするのだけれど、実際には世界も自分もひっくり返ってはいなくて、案外脈々と時が流れているだけだったりもする。 しかし、こういうのは不意打ちで突然やってくるものだから、渦中にいると分析などはできたものではないし、自分自身について客観的にいることもできない。 最初のアレから、巨大なものとしてはもう一度アレが起きて、また2年ぶりくらいにアレが起きたように感じている。 私が強く強く敷いてきた根底の何か、そうでなければ”わたし”の辻褄が合わなくなってしまうと恐怖していた何か、そうでなければ”わたし”の原動力が根こそぎ奪われてしまうと見て見ぬふりをしていた何か、そんなものはなかったのだ。 私は”本質のわたし”と思っていた”わたし”と明らかに違っていることがあったのだと思う。 本当に何にもなかったのだ。 あのとき私が泣いたのは、悲しいでもなくて切ないでもない。 酔いしれるだけなら切ないけれど、切ないようで全然切なくなんかない。 私がともすれば忌み嫌っていたようなどうにも受け入れたくなかったことをようやく受け入れて、心が軽くなんてなってしまって。 これらの訳の分からない一連のことは、結局のところ、私にとっても「で?」という話でしかない。 さてはて、まあお茶でも一杯、と確か「十牛図」で飲茶さんが言っていたようなそんなことだ。 しかしながら、私としては今の方がよほどふつうに歩けるような気がしている。 けいこが来て、けいこが帰っていった。 一緒にお好み焼きを食べて、一杯だけビールを飲んで。 ディズニーランドのお土産とカマストラのパンを置いていった。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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