考えあぐねていた俳句のいくつかをたぶん俳句とか嫌いではなさそうな人に不躾に送りつけて、どれがいいと思いますか、と聞きつつ、再び推敲する。
一応水曜日の24時までが締め切りで、少し遅れても大丈夫と信じて、当たった金麦でも飲みながらあれこれ考えていたら、猛烈に眠くなってしまって季寄せをお腹に抱いたまま寝てしまう。 何度も、起きねば、送らねば、と目を覚ますものの、メールを書くまで至れず、結局4時半過ぎに遅れてごめんなさいと結局手直ししなかった俳句を3つ送る。 明日が句会である。 その前に確定申告を何としてもゼロからほとんど完成まで仕上げたい、と思いながらこんなブログを書いている。 締め切り前に税務署に提出するのだ、という気概は、ある。 確定申告をプロに任せられないようではその事業は上手くいっていない、というような堀江さんの記事がネット上で話題になっていたけれど、税の仕組みをほぼ理解していない私としてはそういう意味でも自分でやりたい。 それに、私の申告などあまり複雑なものはないので、そのくらいの手間は自分で取れる。 それに、その費用で買いたいものは挙げ出せばキリがない。 朝起きると目が真っ赤っ赤で、心なしか瞼がぷっくりしていて、いよいよコンタクトレンズがしていられなくなる。 昨夜泣きはらして・・・、なんて冗談を言った側から間髪入れず、嘘ですけどね、なんて冗談なら言わない方がいい。 友人からすぅっとするよともらった化粧水のようなスプレーを顔に吹きかけると、いい香りはしたものの、弱った目の周りと、しかも目に入ってしまって、あ゛あ゛あ゛・・・となる。 友人は顔にふきかけても大丈夫なものなだけど、そうじゃなくて、マスクとか枕にかけるといいよ、と確かに言っていたのだけれど。 コンタクトレンズを変えてもだめなので、眼球が瞼の裏側が腫れているのだろう。 焦点の合わない目でレッスンをしながら、まばたきをする度に目からペロンと出てしまいそうなコンタクトレンズに我慢してがまんして、その日、中華料理屋のトイレで2weeksの1weekしか経っていないコンタクトレンズを捨てた。 毎年春にはこんなことが3,4回あるので、1dayのコンタクトレンズは好きではないものの、しばらく1dayにした方が良さそうだ。 この日は眼鏡を持っていたから良かったものの、持っていなかったら電車に乗るのもとても差支えただろう。 眼鏡を持っていないのにコンタクトレンズを出さざるを得なくなったいつか、0.1の視力もない裸眼で自転車で帰ったことがある。 街灯も信号もぼやぼやに滲んで、幻想的な世界が広がっていて、少し楽しかった記憶がある。 危険である。 いやはや、それにしてもやはり眼鏡をしていると世界も思考も焦点が合わなくて、思考回路が鈍る。 眼鏡をして近所に買い物に出かけると考えるのが面倒になって余分なものを買ってしまう、ということをとても共感してくれたのは今までにいもうとだけである。 花粉用の眼鏡でも買おうか。 私がするのにとても躊躇う伊達眼鏡は、視力補正や遮光といった機能がなく、あくまでファッションのためのものだ。 花粉防御用なら、れっきとした機能があるわけだからいいではないか。 下北沢のライブにヒロトが来るよと友人が誘ってくれたので行く。 出会うや否やお互いにプレゼントを渡し合って、しばし私の買い物に付き合ってもらう。 私はそんなの選ばないから楽しい、と言われて、そうなのかと複雑な気分になりながら。 私たちはいつも、観客のいない漫才をするかのように会話を二人で紡ぎながら言葉の掛け合いをする。 探ってみたい話の領域が結構似ているのだろうと思う。 友人は、オレンジケーキを頼んだ私に、本日のケーキがりんごのタルトと言われた途端にかぶせるように「じゃありんごのタルト!」と言ったことを、後で「あの瞬間、えみちゃん絶対そう来ると思ったんだよね」と言った。 前にも、「BEAT CHILD」の映画を観終わった後、「氷室さんがカッコ良かった」と私が言ったら「見ている最中、えみちゃんが絶対カッコイイと思っているだろうなと思った」などと言っていた。 そんなことが今まで幾度かあったと思う。 何なんだよ、と思いながら、一抹の嬉し恥ずかしい気持ちで私は照れ笑いをする。 基本的には私は話し口調も態度も人にいじられるような体を取らない。 けれど知り合いの少ない何人かは、きっと私のことをいじりやすいと思っているような気がする。 それは私のちょっとした甘えであり、内心、ありがとう、と思っていたりする。 お喋りは楽しい。 ほとんどすべての人間関係が1対1で構成されている私は、どうしてもその相手の個人的なことが知りたくなる。 どうせなら、過去から脈々と続いているものを踏まえても踏まえなくても、今現状の。 相手を喜ばせるとか、あるいは悩ませるに限らず、自分がされたら嬉しい、あるいは目が覚めるような質問や話題を挙げる。 それはとっても傲慢なことで、しかしながらお互いに何かを知るきっかけになるかもしれないし、関係性を築くかもしれないし壊すかもしれない。 また、どちらかからのその要求は、断るという選択肢だって常にお互いが持ち得る。 「もし私が私と他人だったら、私と友達になりたいと思いますか?」というようなことを言っていた酒井若菜さんの言葉をふと思い出す。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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