禁断の「コウノドリ」をシーズン1もシーズン2も観てしまった。
全部で22話ほど、3日間くらいで観る。 私は、映画などの1本仕立ての物語を観るのは苦手なのだが、興味のある連続テレビドラマを連続して観る力がすこぶる強い。 「コウノドリ」は問題のある出産ばかりを取り上げる話であることは知っていたので、無駄に今自ら不安を煽ることもあるまい、とは思うものの出産にまつわる何か安心材料を見つけたくてつい手を出し、貪ってしまった。 そうでなくともインターネット上の出産情報を漁ってしまう日々である。 事実、私の情報収集はインターネットだけでもそこそこ進んでいるようで、「コウノドリ」の中に出てくる医療用語のほとんどを事前知識として私は入手していた。 トラブルやその原因や対処など、知らないより知っている方が良い。 自分が同じような状況に陥ったとき、比較的落ち着いて対応できるのではないか。 そんなふうに思う反面、そのほとんどが取り越し苦労であろうことを積み上げることは同時にストレスを積み上げることに他ならない。 特にインターネットは、検索ワードに対してそのような情報ばかりを凝縮して集めるシステムなのだから、恐ろしい話ばかりが雪崩のようにこちらを潰しにかかってくる。 知ったって知らなくたって自分の体に起きることは起きるのだ。 しかしながら、その手を止められずに貪り漁ってしまう。 「すべてのお産は奇跡だ」とコウノドリ先生は言う。 一方で、この世にこんなにもたくさんの人間が産まれていて、その全ての出産がいちいち奇跡のような偶然の重なりがないと母子ともに無事であることが叶わないなんて人間は既に絶滅してしまっているのではないかとも思う。 私の周りの友人たちもエピソードは色々あれど、皆無事に出産し子育てを行っている。 しかし、である。 普段は他人と比較して安心を得ることをあまり良しとしていないものだから、都合の良いときだけ「みんな大丈夫なのだから大丈夫」とは思えないのである。 あるトラブルは500人に1人くらい、またあるトラブルは2万人に1人くらい、そんな可能性に自分がヒットしてしまうのではないだろうかと思う心は完全には払拭できないものである。 いつだってそこに厳然と存在するのが、医学が総力を挙げて取ってきた統計の値というものだ。 考えて不安になって、まあどうにでもなるしなるようにしかならない、とそんなループをぐるぐると周るのである。 何かキラリと光る、私の不安を根本から霧消させる言葉などがあれば良いが、そんなものを見つけることは死ぬまでにできるかどうかである。 流れゆく時の中で来る時を受け流すだけだ。 一日いちにち、一時ひととき、過ごしていくしかない。 大丈夫なのか、と問われれば、今は大丈夫と答えるしかない。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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