そういうことなんです、字は線でできてるわけですよ、と熱弁して体としても何かが伝わった感じがしたレッスンの後、確定申告の書類を出しに行く。
二日前くらいから、ほとんど同じような形態でやっている個人事業主の友人にあれやこれやと深夜も深夜にLINEを送り、的確な回答をいただき、一生懸命計算して、一生懸命書いたのに、チェックもほとんどしない感じで受領された。 指摘がもしあるならばその場でしてほしかったけれど、ぺりぺりと提出用と控用の紙を分けられただけだった。 さて雨の中、どこの駅も距離がありそうなので、歩いて帰ることにする。 自転車でならこの辺りは通ったことがある。 自宅へ近づいていることを信じて疑わずにてくてくと進んでいくのはいいけれど、いまいち現在地がつかめないので、グーグルマップを開いてみるとまた見事に逆方向に進んでいる。 こんなことはとてもよくあるのだけれど、毎回、うう、となる。 こんなときは、まず深呼吸をして音楽を止める。 余計なメモリを使わないように何ならマスクも外したいけれど、そうもいかない。 傘もささないといけないくらいに雨は降っている。 15分ほど戻ってさっきいた税務署の町名が見えてくる。 どこをどう回ったのか分からないけれど、一周してしまったのか。 グーグルマップの進行方向の示す先が行き止まりだったり、鉄橋や歩道橋で立体だったり、困惑を重ねて紆余曲折をしていると、いきなり、本当にいきなり家の近所の知っている道に出た。 おおー、と思ったけれど、別に何か脳内の地図的にもシナプス的にもつながったわけではないので、安堵はあれど特には嬉しくはない。 一応、この道の映像記憶はしておこう。 本来20分くらいの道のりを45分ほどかけて帰宅。 方向音痴は、感覚頼りでは進歩はおろか治癒も寛解もせず、できるのはグーグルマップの進行方向を確認することや、映像記憶と合わせて「ここは右」というふうに決めて覚える対症療法しかない。 時間とお日様の方向、という方法もあるようだが、まず今日は雨降りだし、現在地からして自宅方向の方角が何であるかは難しい気がする。 方向音痴と、ごった煮と、お喋りと、お酒と、部屋の掃除と、ロックンロールと。 私の日常にはトピックがいくつかあって、書きたい内容をブログに綴る。 変わり映えのしない日常を確認しながら、変わり映えのすることをほんの少しでも文章中に見つけられたらいい。 別に特別な意味はほとんどないけれども、カタカタと文章を打つのは、友人が「私にとっての演技は呼吸の延長にあるようなことだ」と言っていたように、それに近しい感覚がある。 ブログは個人の誰にも見せない日記帳ではないのだから、閉鎖的な演技という側面もあるだろう。 録画してずっと見ていなかった「すべてがFになる」のアニメを全部観た。 ミステリーはあまり得意ではないのだけれど、森博嗣の描く世界観は好きである。 まあこれはアニメだけれど。 斜め上から物事を見ている淡々とした感じと、答えも意味もないというような突き放し方と、緻密なトリックが最重要視されてはいないだろうことと、ただ何かが余韻として揺らぎの中に残る感じと。 最終回に、言葉尻には何にも意味のないジョークや会話が人を救うこともあるのですよ、というようなくだりがある。 私はこれまでも誰かとくだらないやりとりを山ほどしてきただろうけれど、ただただくだらないやりとりが何とも愛おしいと思えるようになったのは、ごく最近のことかもしれない。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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