自宅でのレッスンが2件のみだったのでとても時間があって、いろいろなことをすることが考え得たけれど、外は風が強くて花粉も大量に待っているだろうから一日一歩も出ないと決め込んだ。
少し元気のないクワズイモに陽を当てようとベランダに出していて、煙草を吸いに時折外に出るともれなく倒れていた。 今日だけで7,8回クワズイモを起こした。 書作に精を出す。 展覧会の作品の構想はだいたいできた。 90×240を2枚にしようかと思う。 これ以上大きいのは今の部屋の広さの関係で無理だ。 普段あまり使わない筆を使うことにしたけれど、まだ筆に遊ばれてしまう。 飼い馴らさねばと毎月の課題やら頼まれごとのお手本やらをすべてその筆を用いる。 漢詩にも慣れねばと、季節柄、孟浩然の「春暁」を創作で書いてみる。 山盛りの反故で、自分の至らなさの山盛りを認識する。 さてはて、字を崩すことになぜこんなに苦労をしているのだろうか。 記号として「読める」で終わりのはずの字を線がどうだ空間がどうだと、一般的に読めない方向へ読めない方向へと筆を走らせて苦心する。 字典で異体字を調べたり崩し方を調べたりもする。 誰にも頼まれないし、誰も必要とはしていない。 「読める」のが記号的字の役割であるのに、読めないのでは合理的な役目など一切ない。 この世になくたって厳密な意味で誰も困らないことを、体力と労力と、時に知力と、金銭と資源を費やして行う。 別にそれがギターでも絵でも彫刻でも何でも同じことだけれど。 そんなに変わった人間なのだろうか、私は。 “普通”の定義もしないまま、“変態”への憧れは潰えることはことはない。 しかし、こういう場合の“変態”とは他人からの評価以外にはありえないものだ。 本人的に”普通”という“変態”、に私はなりたい。 創作途中に2人の生徒さんがいらして、先日は宛名書きのチューニングに合っていてピシッとした楷書体がとても書きやすかったわけだけれど、今日は創作のチューニングに合ってしまっていて、レッスン時に若干戸惑う。 おそらく話し口調とかにも多分に影響しているだろうと思う。 理屈と同じくらい「気合い」みたいな話をいつももするけれど、いつもに増して「気合い」みたいな話をたくさんしてしまった気がする。 何か、よく分からない感じで変だったろうな、と終了後に反省している。 モードの切り替えは案外大変である。 最近iTunesを全シャッフルで流すことを気に入っていて、レッスン中は音楽を微音でかけているときもあれば切っているときもある。 切り忘れて途中で尾崎豊の「I LOVE YOU」が流れて、なぜ今こんな曲が・・・と割に寡黙な生徒さんと二人、話題に窮したりもした。 フェイスブックに書道を嗜む人たちが集まるコミュニティがある。 そこに私も時々参加していて、いろんな方の作品を拝見したり、自分の作品を投稿したりしている。 その関係で、実際には面識のない方から友達申請をいただくことが結構数多くある。 少しのメッセージをやりとりすることもあるし、時に作品についてのお褒めの言葉をいただくこともある。 とある書家の方に「あなたの書く線が好きなんです」と言われて、なんだか泣きそうになってしまった。 ついでに、「あなたの書く線はなかなか考えて出せるものではないです」ともお言葉をいただいて、比較的あざとく考えて書いている場合もあるにはあるので、それはどういうことなのだろう、とはてなが沸いた。 私は書も俳句も、あるいはブログも、自分の気が乗れば創作をしたいし、何か創作をしているときはどうであれ総合的に見て状態は悪くないわけだれど、創作寄りの人間であることに未だ乖離感がある。 創作寄りも何も、別にただそれをやればいいだけのことだけれども、自分がやっていることと人から思われているだろうイメージと自分のキャラクターやアイデンティティといささかずれているのではないかと思うことがある。 覚悟の問題なのか、資質の問題なのか、今のところ定かではない。 私はおそらく所謂ところの「不思議ちゃん」ではないと思うし、加えてただ何か特別なものを持たざる者であるだけなのだと思う。 時間に追われているわけではないけれど、文章が急いている。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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