かえるくんが腹の中でもごもごぽこぽことしている。
時折、ぼこんぽこんと大きく動く。 自分以外の生命体が、不随意に私の腹の中で蠢いている。 春である。 胎動はかえるくんが生きている証で、あまり大きく強く動かれ過ぎても母体は辛いだろうが、胎動がないのもまた恐ろしく不安になるものである。 かえるくんの動きが何を意味しているかはさっぱり分からないのであるが。 妊娠して自分自身が以前と比べてすごく変化があったというか、自分で意外であったことと言えば、「この命を失えない」と身体で強く思っているらしいということだった。 自分の思いとして考えたり願ったりしているというよりは、全身でそう考えているらしいのだ。 自分の生い立ちや親子関係などを振り返ってということではない。 今このことを書いていてさえ、本当に不意に目頭が熱くなってしまうほどなのである。 いつだって、いつかは、命は失われるものである。 それは胎児のときなのか、この世で肺呼吸を始めて100年後なのかは分からない。 親が先なのか子が先なのかも、そんなことは分かったものではない。 自分の身体の生命活動でさえも多くのことは不随意である、ということが私の中で結構大きなこととして腑に落ちたのは妊娠する少し前である。 呼吸も咀嚼も消化も歩行も、全てが不随意ではないにしても、そのほとんどが意識的なことではないと言っても良いだろう。 一連の消化活動においては、私たちの身体の中で、考えてもおよそ手順が覚えられないような過程が日々あらゆる調整の下で行われているわけである。 それがこの世の中のごく普通のことで、恐ろしく緻密壮大なことである。 地球やら生命やら、神の所業によるところ、とも言いたくなるのも分かる気がする。 人間ひとりの短い生涯をかけて読み解いて系統立てて整理できるようなものではないから、その整理を諦めたときに神が出てくるのかもしれない。 でもまあ、それを系統立てて整理できてもできなくても、私たちの身体は止まらずに、いや止まるまで、ただ生命活動を粛々と行っていくのである。 自身の身体さえこんなにも不随意で動いているのに、今は別の生命体が別のシステムで動いているわけだから、もう不随意も不随意である。 しかもその生命体が現在どのような形でいるのか目視することもできないものだから、次の行動も予測できない。 動いていないときは眠っていて、睡眠覚醒はおよそ30分交替で訪れるとのとこだが、そのタイミングも見ることができない。 胎動でコミュニケーションが取れるらしいが、それはもう少し後だろうか。 かえるくんの胎動は日に日に大きくなっている。 それに加えて私の腰痛は日に日に増している気がする。 出産までに体力をつけなさいと方々から言われるが、活発に動くことが出来かねる場合どのように体力増進を図ったらよいだろうか。 トコちゃんベルトなるものを、出産を終えた方からいただいた。 骨盤を支えるコルセットだ。 そのベルトのホームページを見てみると、なんとまあ装着が難解なことだろうか。 私は元々、電化製品も家具の組み立ても役所の手続きなどの説明書を読むのが本当に嫌いだ。 どうせ読まないし、と即座に捨ててしまうことも多い。 文面としてさっぱり頭に入ってこないので、読み終わったつもりでも結局何をやって良いのかが分からないのである。 と思って放置していたところ、それを下さった方とは別の方から、私の腰痛を案じて連絡をいただいた。 やはりトコちゃんベルトを使っていたのだそうだ。 トコちゃんベルト、人気のようだ。 そして、その方曰く、装着は全然難しくないのだと言う。 看護師さんや助産師さんに聞いてみてと言われたが、そんなにも有名なものなのか。 ついでにあれこれと相談に乗っていただきアドバイスをいただく。 もう既にひとりでいることは不可能な状態になってしまったけれど、かえるくんがお腹の中にいるうちにやはりひとりを意識的に満喫しておこうと思う。 夜、確定申告に手をつける。 披露宴のブーケに使ったミントが、ぐんぐんぐいぐい大きくなっている。 植物もかえるくんも、春である。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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