33歳になった。
ケーキとピンクの花たちをいただいたり、石けんをいただいたり、メッセージをいただいたり。 私はある別のことで頭がいっぱいなので、それどころではない、というのが本音である。 でもありがたい。 まだまだ十分に若いと思うけれど、確かにたしかに年を取ったなあと思う。 同級生の友人たちは家族を築き、一方で既に亡くなっている人もいる。 皺はみんな増えたし、禿げた人だっている。 自分が子どもだった頃からすっかりおばさんになったのだけれど、未だ自分が子どもであるという消えない認識から、色々の選択から避けていることがある。 何かを誰かが決めてくれて、文句や評価だけを言う。 最後に勤めた会社を辞める数か月前、私は社長には結構言いたいことを言っていたのだが、「お前は檻の中で吠えているだけだ」とその社長に言われたことがある。 私はその後言い返せなくなり、妙に納得した覚えがあるのだが、実際に腹落ちはしてなかったような気がすると今改めて思う。 会社を辞めてひとりでやっていても、どこか社会と対峙している自分は説明の出来ない大いなるものに守られているような気がうっすらとしていたように思う。 自分のことなのに、どこか他人事だったと言ってもいい。 人生におけるあらゆる選択決断が結局のところすべて自己責任であることは、“論理的に”十二分に理解しているつもりなのに、私の決断が私のものである自覚になぜだか乏しいのである。 何らかの決断について、外界の価値観や他人の許可を必要としていたのだろう。 それはそちらの方が責任を取らずに済むからであり、自分のせいにしたくないということが深層にあるだろうと思われる。 最近、本当にここ数か月、私は社会の中にいるひとりの裸の成人女性である、ということがただ身に染みてきているような気がしている。 裸の成人女性、とは語弊があるようにも思うが、枠組みとしての社会のみならず、他人と接するすべての場合においても、ただの事実、私は独立したひとりであるということだ。 そろそろ、何らかの決断に自分の意志と覚悟を自覚的に反映させて、己に対して責任を取り、我が人生を自分のものにしておかねばなるまい。 そのことがようやく腑に落ちてきたら、社会というものが思っていたよりも複雑であり困惑していることや、人生というものが思っていたよりも案外難しいということが厳然と立ち上ってきた次第である。 何か物事が腹落ちしたり腑に落ちるとき、瞬間的にそれを分かったと認識することもあれば、分かりかけているというような状態からじんわりと分かったという状態へ移行していくこともある。 分かりかけている、という時点でその物事について真剣に具体的に噛み砕いてみようとすればおそらくもう少し短期間で、分かる、という状態まで持っていけるような気もするが、私はなかなかその面倒が買えないのでほとんどの場合ほったらかしにしていることが多い。 だから、何かが分かるまでに数年とか十数年とか数十年とかかかったりする。 余程ダメな人間である。 33歳、がんばりましょう、と自分を明るく鼓舞する。 久しぶりに買った豆苗がぐんと精を出して背を伸ばしている。 植物が伸びるのを見て感じられるのは、いいね!、と思う。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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