夜、予めコンタクトレンズを外して自転車をこいで出かける。
先日クリーニングに出してしまった冬のコートがないので、革のジャケットとマフラーを巻きつけて。 春の匂いはするのに空気はきんきんに冷えていて、マスクが防寒にも感じられる。 花冷え、なんて悠長な言い回しにほんの少し怒りのような感情が混じった。 それもこれも花粉のせいで体調がすぐれないことがとても影響している。 しかしながら、花粉症でないのなら私は春のことが好きだろうか。 どうだろう、そんなこともない気がする。 酔っぱらった大勢が地下鉄の入り口に吸い込まれていく時刻、時々私は自転車で都会を走る。 マスクをして眼鏡をしていると、眼鏡が自分の息で曇る。 曇った視界は、街灯の白い光の周りを虹色のぼわんとした輪っかが覆って幻想的な世界になる。 幻想というのは、ぼやけていて、滲んでいて、私にしか見えていない。 2か月前ほどに差し上げたプレクトランサスアロマティカスに、根が伸びてきて子どもの葉っぱも増えてきました!ととても嬉しそうに生徒さんが言う。 スマートフォンで撮った写真も見せてくれた。 サボテンも枯らしてしまう、と言っていた彼女は植物の成長を喜んでくれているようだった。 家にも切れてしまったプレクトランサスアロマティカスの端くれが水差しになっているけれど、ほとんど成長しないので、おそらく差し上げた部位は生長点を含んでいたのだろう。 人が喜んでくれると私も嬉しい、というのは確かにそうだ。 人を喜ばせたい、ということが自分が生きたり何かを行う理由の最上位に掲げられることはなんだかおかしいと思うし、そもそもそんなこともないのだけれど、人が喜んでいる姿というのはやっぱり自分にとっても喜ばしいことだ。 もっと喜んでほしい、それはそんなふうにも願うだろう。 その喜びがその人にとってどれほどのものなのか、あるいは演技的なものなのかはずっと図り得ないものだけれど、それでも。 ちなみに、生徒さんに「この前区役所で書いた住所と名前が前より全然良くなっていました」などとご報告いただくこともある。 もちろんそれは確かに喜ばしい一方で、少しでもそうなるように多面的に働きかけるのが講師業というものだと思っているので、私自身にとって手放しで喜ばしいということではなかったりもする。 字はコツさえつかめれば誰でも即効で上手くなれる、というわけではない。 理解も必要だし、実際には運動を伴うことなので当然ながら練習が物を言う。 何にせよ本人にやってもらうことが重要である。 今日そう言っていた生徒さんはペン字から筆ペンをやり、今は書道をやっている。 空間バランスの取り方、スピードの緩急、力のかけ具合、それらはほとんどペン字も筆ペンも、筆も変わりはない。 しかしペン字ではやっていることが小さすぎて分かりづらいこともあるので、長い目で見たら書道をやることはペン字においても上達への急がば回れの方法なのだろう、ということはいろんな生徒さんを見てきてとても実感するところである。 まあもちろん、ご本人の興味や嗜好性ということもあるし、そのアプローチ方法の向き不向きは色々とあるけれども。 あと、生徒さんにとっても、あるいは私にとっても、字についてが最重要事項でなくたってそれはそれで全くもって構わない。 もちろん私も知らないことだらけだし、私の方が何かしらのことを生徒さんから教わることだって当然ある。 いずれにしても、私が字を体得することにおいて伝えたいことが全体としてふんわりでもまるっと伝わる瞬間というのは喜ばしいし、生徒さんが日常生活において私をきっかけとしたことで字に対してや何かしらの認識が少しでも変わったり、自分でできるようになったりすること、そしてそれを話題として持ってきてくれること、というのはやっぱり喜ばしい。 松山で手に入れた切り干し大根で、また夜な夜な煮物をする。 切り干し大根とにんじんと油揚げと鶏挽き肉と。 白菜の時期が終わってしまった最近のごった煮は、もっぱらこれである。 同じく松山で手に入れた乾燥ゆずを入れてみようかと思ったけれど、途中味見をしたらとても美味しくできていたので、勇気がなくなってしまった。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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