納豆とか卵とかチーズとか海苔とかしらすとかたらとかヨーグルトとかバナナとか子供用ジュースとか、息子がよく食べるものを切らさないように購入するのだが、息子の食費がそろそろカウントできるくらいに上がってきたように思う。
大人二人であればあれもこれも買わないというものを日々平均して200-300円ほど買っているだろう。 母乳が主食だった頃はかからなかった食費が明らかにかかるようになっている。 相変わらず食にさほど興味のない子であるが、それでも一人が生きていく分の食糧は重量にしてもお金にしても、それなりの大きさになるのである。 保育園にしてもそうだけれど、いよいよ社会参加の感が高まっている。 ところで、1歳と1か月を過ぎた息子であるがまだ歩かない。 つかまり立ちもつたい歩きも上手にするのでそのうちとは思うのだが、歩こうとする意志を本人に感じない。 こういったことがあると、もしかしてどこか変なのでは!?と咄嗟にひやりとしてインターネットで検索を始めてしまう。 1歳3か月までに約8割の子が歩き始めると書かれている。 最近では、歩く練習をもっと幼い頃から始めるという話も聞く。 一方で体幹を鍛えるためにハイハイを大いにさせた方が良いという話も聞く。 子育て論についてはほとんどがトレンドだと思っているので、うちではこれと言って特別に何かをやらせたり教えたりをしてこなかった。 言葉や指差しやベビーサインやおもちゃの遊び方なども、こうさせようと特段教えていることはない。 それは我が家の方針というものでもなく、単にあまり考えることなく日々が過ぎているだけであるが。 「バイバイ」と手を振ることは、対外的コミュニケーションとしてできると望ましいと思っているので軽く教えているのだが、20回に1度くらいしかやってくれない。 同じ時期に産まれた女の子のインスタグラムを見ていると、その子が特別発達が早いように思うが、もうバイバイは当たり前、てとてと歩いて、指差しして気持ちを伝え、「ママ」らしき言葉を発語し、絵本のイチゴを手で取って食べる仕草をし、自分でスプーンを持ってヨーグルトを食べている。 そうなると、息子の発達が遅いのではないか、そんな不安に駆られてしまう。 今度は、私の育て方というか遊び方などがかなり不足しているのではないかという自責にも転じたりする。 そして更に、かと言って息子の発達プログラムを私が組むこともしないだろうという罪悪感も上乗せされる。 子育てネタの漫画やブログが炎上しやすいとよく耳にするが、こういった母親の不安や欺瞞や罪悪感が複合的に出てくるからだろう。 成長が早い子も遅い子も色々いる、他人と比べなくて良い、そんなことは分かっているし、あっけらかんと構えていたいのだが、心配の種がどんどん発芽して大きくなって心が苦しくなる。 落ち着いて、邪気を抜くように深呼吸してみたりする。 子育て全般そうなのだが、子どもの不調や発育に関して、どうしてこうも心臓が高まりやすいのだろうか。 私は、息子において人より優れていて欲しいとか、どこか病気だったら困るとか、そういったことを思っているのだろうか。 そんなとき、私は以前息子が離乳食も哺乳瓶のミルクも全くダメになって本当に悩んでいたときに言ってくれた「その子が困っていなければ大丈夫だよ」という言葉を思い出す。 そう、私が悩みに悩んでいたことも、息子自身が悩んでいたり不快に思っていたことはもしかすると一度もないのかもしれない。 どうやって私の深層心理の不安を拭い去ればよいのかまだ分からないのだが、息子に社会基準を当てはめてそれに向かおうとすることは良いことではないことは分かる。 とか言って、手を引いて歩く練習をしてみたりする。 きゃいきゃい言いながら楽しそうに歩くので、折に触れてやっても良いかなと思っている。 できないことができるようになるのは嬉しいことなので、息子が二足歩行をするのをやはり私は楽しみにしている。 こうした自分の一貫性のなさや、覚悟の足りなさに憂えたりもするのだが、まずすべきなのは、あっけらかんとしていたい、という憧れを捨てることなのかもしれない。
0 コメント
あなたのコメントは承認後に投稿されます。
返信を残す |
勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
|