第1回、酔書。
ということで、別に何の企画をしたわけでもなかったのだけれど、ある生徒さんが「気分が良いので飲みながらでも良いですか」と仰って、「どうぞどうぞ。よろしければ家にあるサントリーオールドでもどうぞ」と申し上げ、揚々と昼間のレッスンにやってきた。 氷とウィルキンソンの炭酸水を持って。 レッスン中にお酒を飲むことを許可しているわけでも禁止しているわけでもない。 カフェでのレッスンで生徒さんが先にビールを注文されていることが過去2回だけあったけれど。 別にたまに飲みたい気持ちが分からないでもなく、もちろんへべれけに酔っぱらってしまうわけでもないので特段問題はない。 もちろん、私は仕事なので飲まないし、相手にもっとどうぞと勧めることもしないけれど。 一日の終わりで、強く勧められたら飲むかもしれない。 その方は私と同様の形態でお仕事をされているので、そういう点においては同士的感覚の共有はあると私は思っている。 書であっても何であっても、芸事を体得する難しさやそれを人に説明のすることの難しさにはいくつもの共通点が見出せる。 自分がそんなことを生業にしている理由だって、いろいろな違いは無論あれど、共通するところはあるだろう。 ちなみに今は全然行っていないギター教室の先生も個人で教室をやっていて、今や一緒に飲んでいる回数の方が断然多いけれども、私は彼が個人として教えている形態を知らなかったら今のように教えるその発想さえも持てなかったかもしれない。 そんなふうにも生きられるのだ、と思ったものだ。 酔拳、のように、酔書、というのは存在する。 まあ、酔弾、酔歌、酔球・・・何だって飲んでやればそういう名が付けられる。 音楽シーンとお酒というのは強く結びついていると思うけれど、本当にそれをやっている人はそれらはそもそもとして完全に独立している。 飲むためにギターを弾くわけでもなければ、ギターを弾くために飲むわけではない。 酔わないと最高のものができない、というのはどの芸事の世界でもそんなことはあり得ないだろう。 芸事には何らかの運動が伴い、酒は運動能力を低下させるからだ。 ただ、最高のものができる可能性、はあるだろう。 たまたま偶然、良い具合に己が解放されて気分が乗って艶が乗って、そんな状態で書かれたと言われているのが1700年も前に書かれた書の最高峰、王羲之の「蘭亭序」だ。 ただそれは王羲之の能力平均値が高かったからこそであって、普段はダメダメなのにたまたま偶然異次元にジャンプしたなんてことでは毛頭ない。 私はその後すぐに別のレッスンがあったので飲んではいない。 しかしながら、目の前で上機嫌になっていく様を見ていたら、ウィルキンソンの炭酸水がオールフリーで酔えるという妊婦さんみたいにやや酔っぱらったみたいに楽しくなった。 ウィルキンソンの炭酸水は透明な水の中から絶えずパチパチシュワシュワ、刺激が強くて美味しい。 1リットルなど大きめのボトルではダメらしい、500mlボトルがより刺激的。 「○○を達成するたった一つの方法、5選」と言ったところで爆笑してくださったのだが、箸が転んでも可笑しいお年頃というかお時間だったのだろう。 私はこれは素面でも十分に笑えるけれども。 私が面白いと思っていることを投げかけて、目の前の人が笑ってくれるのは結構嬉しさのレベルが高い。 マンツーマンで教えていると、基本的に生徒さん同士のつながりはない。 別になくても良いのだと思うけれど、書道をやっている人中心に、忘年酔書でも企画してみようかなと思う。 そういった企画物のホストをやることはほとんど経験がないから心配だけれど。 その前に集まっていただけるのであろうか。 夜、ひとり酔書をする。 漢字作品をもっと書かないとというか、書きたいけれど、全然自分の技術が追い付かない。 イメージも乏しい。 やった分だけ進める、というのは多分本当だ。 水遣り不足で葉が散ってしまった木瓜の木から、こんな季節に新芽が芽吹いてきた。 葉を落としてしまった細い枝を私は切ろうと思っていたのだけれど、ちゃんと血が通っていたのだ。 寒空にはだかの血管落葉樹 という俳句処女作を思い出す。 冬の落葉樹は、空に向かって血管のように伸び、血がどくどくと流れていて、決して死んでも休んでもいない。 見えないのだけれども。 しかしながら、今であればこの句はできない気もする。 初めての冒険、というのは、嬉し恥ずかしいものである。
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勿忘草
無論書道のこと、否応なく育児のこと、などの雑記です。文字自体も好きですが、文を書くのも好きです。 カテゴリアーカイブズ
3月 2024
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